1. 黄金の都
あ。
『お兄ちゃん』がいる。
──振り返った『彼』の姿を一目見て。
少年は、何の根拠もなしに、そう思った。
おや。
これは随分と可愛らしい『仔犬』だ。
──掛けられた声に振り返った『少年』は、その声の主を見遣って。
尻尾と耳が付いていれば、もっと可愛いのに、と、そう思った。
それは。
黄金の都と名高い、トラン共和国の首都グレッグミンスターへ向かう際には必ず訪れなければならないバナー村の裏手にある、静かな池の畔での出来事だった。
ハイランド皇国と戦争中の同盟軍を率いる盟主の少年、セツナは、村に住むコウ少年に、『同盟軍のセツナ将軍』──則ち、己がお忍びで釣りを楽しんでいる、と言われ。
自分と間違われている人物は、一体誰なんだろう? との興味から、池へと続く道にて、誰も通しません、とばかりに立ち塞がっていたコウの姉を、コウと結託して行った些細な悪戯で遠退け、その日一緒に行動していた義姉のナナミ、腐れ縁傭兵コンビのビクトールとフリック、余り性格が良いとは言えない風の魔法使いルックの四人を引き連れ、『セツナ将軍』が釣りをしている池を、賑やかに訪れた。
コウに言われた場所に足を踏み込んでみれば、確かに、自分と同じような色合いの赤い服を纏って、黒髪を被うように若草色のバンダナを巻いた、自分よりも数歳年上らしき少年が、のんびり釣り糸を垂れていて、
「あのぅ……」
そろり、セツナは、小さな声で彼へ語り掛けた。
──その時、セツナの放った声は、恐る恐る、と言った風にも聞こえる細やかなものだったが、何処か弾んでいた。
何故そのように思ったのか、セツナ自身にも判らなかったけれど、どういう訳か、自分と間違われた少年の後ろ姿を見付けた時より心がうきうきと弾み出して、これから何か楽しいことが起こるような予感を覚えて、何処となく幸せな心地にもなれて。
故に、セツナの声音は弾んでいた。
「……ん?」
その、そろりと囁かれた声に、釣り糸を垂れていた少年は徐に振り返り、
「あ……」
「……おや」
話し掛けたセツナと、振り返った少年の視線同士がぶつかって、彼等は見詰め合ったまま、声を詰まらせた。
──セツナは。
黒髪で、すらりとした体格をしていて、髪の色と等しく黒い瞳を持った、凛々しいと言うよりは、美しいと言った方が相応しい面差しの少年を見遣った瞬間、やはり、何故なのかは判らなかったけれど、ああ、『お兄ちゃん』がいる、と思ったが為。
──少年は。
何が楽しいのか謎だが、やけにうきうきと弾んでいるような感じで声を掛けて来た、ふわふわした薄茶の髪、くりっと丸い薄茶の瞳の、実年齢よりも若干幼く見える風な愛くるしい顔立ちをしたセツナを、随分と可愛らしい『仔犬』がいる、と思ったが為。
彼等は一瞬、自身の思いに捕われて、続く言葉を忘れたのだけれど。
「……セツナ? どうしたの?」
「カナ……タ? おい、カナタか? お前、カナタなのかっ?」
言い淀んだ義弟の態度に違和感を覚えて口を開いたナナミと、振り返った少年が、かつての戦友──否、『統率者』であることに気付いたビクトールの声で、彼等の沈黙は破られた。
「……知ってる人? ビクトールさん」
カナタ、と少年の名前を呼んだ傭兵を、はっと我に返ったセツナが見上げた。
「ああ。奴は、トランの──」
「ひっっっさし振りだねえ、ビクトール。それにフリックも。おーや、ルックまで」
見上げて来た現『統率者』に、かつての『統率者』の正体をビクトールは告げようとしたが、にっっこりと笑って傭兵コンビや魔法使いの名前を呼んだ少年──カナタに、彼の説明は遮られる。
「うわ、やっぱり、カナタかっ! お前、何処で何してたんだよ、この三年間っっ」
ちゃぷりと、魚に餌を取られて久しかったろうに垂れさせたままだった釣り糸を引き上げ、竿を肩に担いだまま近付いて来たカナタに、セツナへの説明もそっちのけで、ビクトールは歓声を上げた。
「それは、僕の科白」
が、カナタは。
やはり、にっっっこりと笑ったまま、眼差しだけは真剣に、バシバシ背中を叩いて来たビクトールと、呆然としたまま突っ立っているフリックの二人を見詰め、
「……君、は……、んー……。この二人やルックと一緒にいるってことは、同盟軍の者ってことなのかな。……ああ、同盟軍の噂は聞いてるから、そう思ったんだけど」
ビクトール達に向けた眼差しとは明らかに違った、柔らかい光を湛えた漆黒の瞳をセツナへ向けた。
「……あ、はいっ。えっと……セツナ、と言います。初めまして、えーっと……」
「カナタ。カナタ・マクドール。そこの腐れ縁傭兵コンビや、風の魔法使いの元戦友」
ぽわっ……、と、カナタが向けた綺麗な微笑みにセツナが見愡れている内に、カナタは自己紹介を終え、セツナに気付かれぬよう素早く、担いでいた竿で、ビクトールとフリックの二人をぶん殴る。
「……いっっ」
「何す……──」
『あの戦い』から過ぎること三年振りに再会した戦友の余りな仕打ちに、ビクトールもフリックも唸り声を上げ掛けたが、ちろり、と冷たい眼差しでカナタに睨まれて、二人は押し黙った。
「…………? どうか、したの?」
ぽやん、と『らしく』なくカナタを見詰めていたセツナは、その一連の出来事に気付かなかったらしく。
「…………君、少し、性格変わった……?」
「どうしたんだろうねえ。大人って、時々、変な言動をするからね。──で、処で、セツナ君? 僕に何か用かな」
ぽつり、洩らされたルックの呟きも綺麗に無視し、唯々、可愛らしい存在を見詰める眼差しで以て、カナタはセツナを言い包める。
「あ、あのですね──」
言い包められたセツナは、声を掛けた理由を打ち明けようとしたが。
「……カナタ様っ! コウがっ!」
その時、バナー村の方角から上がった叫び声によって、それは妨げられた。