木賃宿程酷くはないが、その夜、マオとリンが逗留すると決めた宿屋は、満足とは決して言えない食事すら、出てくるかどうか疑わしい宿だった。
わざわざ、程度の悪い宿を選んだ訳ではなく、そこしか空き室がなかったからというのが理由で、でも、真の紋章の所為で、安住の地も得られず、世界を彷徨い歩くより他ない彼等だから、目立たなくて丁度いいと、そこにて部屋を選び。
が、幾ら何でも、多少はまともな食事がしたいと、街へ繰り出し、件の酒場で夕餉を取った。
この街にも、至る所にあるような、酒も食事も出す、酒場の看板を掲げた店で食事をしていると、どうしたって、見掛けだけは十代半ばの少年二人連れ、酔っ払い共に絡まれ、要らぬ喧嘩を売られることもままあるけれど、その酒場では幸い、ちょっかいを出してくる輩もおらず。
何事もなく酒場を後にし、そこより少々離れた宿へと、彼等は通りを戻り始めた。
──陽など、疾っくに落ちて久しいから、通りを行く彼等の足許を照らすのは、窓辺から洩れる家々の灯や、盛り場の灯籠で、ゆらゆらと揺れる光は、何処か覚束なく。
頼りない灯を、それでも頼りに、酔っ払い達の姿がそこかしこに窺える、時刻の割にはごった返す通りを行かなくてはならない彼等は、自然、身を寄せ合う風になった。
「歩き辛い……」
「そうだね」
「……逸れても、宿、直ぐそこだから、平気ですよね」
「うん」
……行き交う人の姿は、確かに多いが。
例えば、縁日の最中を行く程の労はないのに、リンはボソっと、心にもないことを洩らして、判っていながら、マオはそれに答えて。
歩き辛いと言うなら。そして、逸れそうだと思うなら……、と、そう言わんばかりに。
するり……、とマオは左手を、伸ばし巡らせ、リンの、右の手首を掴んだ。
体温の移り切った手袋で覆われた指先が、己が肌に沿ったのを感じた瞬間、リンは、ピクリと肩を揺らしたが、抗わず、緩く手首を返して。
リンの見せた『意図』に、今度はマオの方が、ピクリと肩を揺らし、でも、マオも。
想い人の手首に沿わせた手を滑らせ。
無防備な掌や指に、自身の指先を這わせつつ、手と手を結び合った。
指と指の間を割って、しっかりと手を握り込めば、同じだけの力が、リンからマオへと返される。
だから、繋いだその手をぐいっと引いて、マオは、己のマントの中に、繋いだ部分を隠した。
そうすれば、二人の体は益々寄り添う風になって、ほんの少し首を傾げるだけで、マオの頬に、リンの髪が触れる程になり。
「十年なんて、所詮、十年、なんだけどね」
「……ええ」
「それでも、十年は十年、でさ」
「そうですね。……短く……はないですね、決して」
「……君も、そう思う?」
「思いますよ。確かに、そう思います」
「そう。……じゃあ、『僕達自身』にとっても、この十年って、『長過ぎた』とは思う?」
「…………思いますね。──……マオさん」
「ん?」
「言いたいことがあるんなら、はっきり言って下さい。もう今更、止めましょうよ、遠回しなこと言い合うの」
──ボソボソと、マオはリンの耳許で取り留めの無いことを言い出し、繋いだ手はそのままに、リンは、そういうのはもう……と、視線を巡らせ、マオを軽く睨んだ。
「…………はっきりさせてもいいの?」
「いいですよ。もう、この際です。今日こんな風に、盛り場歩きながら話切り出されるとは思ってませんでしたけど。この話、始まっちゃったんですし」
「まあね。僕も、歩きながらこんな話、するつもりはなかったけど。……『十年目』だから。どの道何処かで、この話、するつもりではいた」
「……あれ? ……あ、そうか。今日で十年、でしたっけ」
「忘れてた? リンは薄情だね」
「こんな風に話し始める、マオさんだって、大概、ですよ。……色気もへったくれもないじゃないですか。──でも、まあ。……うん、良いです、僕は。もう十年も経ったんですし。もう、今更……ですし」
「……そうだね。君の言う通り、色々と、今更なのかもだけど。──…………そういう訳だからさ、リン」
チロリ……と、睨め付けるような視線を、傍らから送られても、マオはさらっとそれを流して、低い声で話し続け。
『何故、今日、ここで』、の理由を知ってリンは、あー……と、睨みを引っ込めた。
そうしながらも、手を繋いだまま二人は、歩き続けることを止めなかったから、マオが話を切った時、丁度彼等の目の前には、今宵の宿を求めた店が、立ちはだかるように姿を現し。
「『そういう訳だから』、何ですか?」
「……そういう訳、だから。いい加減、関係、変えない?」
「…………マオさんって、ホント、情緒ないですよね」
立ち止まり、安宿の門構えを見上げつつ言ったマオに、リンは溜息を零した。
「情緒、ねえ。……そういうこと、別に気にしない訳じゃないけどさ」
その時、リンの口から洩れたそれは、心底の、呆れが乗った溜息で、可愛げがないのはどちらだと、内心でのみ思い、マオは、繋いだままの手を再び引いて、安宿の門を潜るでなく、眼前の建物と、その隣家の境に当たる、狭い隙間へと潜り込んで。
「雰囲気作って、いきなりこういうことされても、君は困るだろう?」
煉瓦作りの壁に、リンの背を押し付けるや否や、キスを仕掛けた。
──……ほんの少し外れてはいるが、盛り場の片隅にあることには違いない、安宿の周囲は。
行き交う人々も、決して少なくはなく、喧噪は直ぐそこにあって、そんな場所の路地裏で、明らかに少年同士と判る二人が接吻などを交わしていたら、目立つことこの上なく。
二人の様は、何者かには必ず、注視されそうだったが。
怯むことも、臆することもなく、マオは接吻を続けて、嫌そうに、リンは身を捩らせた。
「…………マオさん……。貴方、馬鹿ですか……?」
長らく続いたその行為の後、リンは涙目になって、精一杯、マオを睨み付けるも。
「……何処が」
ケロッと、マオはリンの不興を受け流して、髪を覆う、若草色のバンダナから洩れる、前髪を掻き上げた。
「ホントに、もう……っ……」
マオのその仕草は、何処か、夜に慣れた遊び人のようで、通りすがりでしかない女の目を引き付け、見惚れさせるに充分過ぎたが、その実、指先は僅か、震えており。
微かな、その震えに気付いたリンは、思い切りの良過ぎることするから……と、先程とは意味合いの違う溜息を零した。
「……一足飛びに、『そういう話』がしたいんだったら、せめて、宿の部屋でして下さい」
「…………ふーん。拒否はしないんだ」
「拒否して欲しいんですか? こんなことされても、僕、マオさんのこと突っ撥ねなかったのに、今から急に嫌がったら、僕の方が馬鹿じゃないですか。……僕は嫌ですからね、馬鹿になるのも、マオさんのこと拒否するのも。……折角、十年経って、やっとこうなったのに…………」
「……本音?」
「勿論」
「そう。……じゃ、本腰入れて関係変える為に、色気のある会話でもしに行こうよ」
「…………そういう処が、色気がないんですよ……」
溜息を零して、肩を竦めて。
どうして、貴方は……と、そんな風に、リンがマオを見上げても、見た目、マオの風情は変わらず、漂う雰囲気は、何処か、空騒ぎで。
けれど、繋ぎ続ける手と手に籠る力は、互い、強さを増す一方で、マオの頬も、リンの頬も、仄かに赤く、染まっていた。
だから、心にもない悪態をリンは吐きつつ、吐かれた悪態を、マオは適当にいなしつつ。
二人は、これまで過ごして来た十年の日々を、『その先』へと変えるべく、安宿の門を潜った。
End
後書きに代えて
お楽しみ頂けましたでしょうか。
サイト開設六周年記念企画で行わせて頂いたアンケートで、得票数一位だった、幻水は坊主の小説でした。
……色気、あるかな。あるといいな…………。
──サイトの常駐Wリーダーではない彼等ですが、私にしては珍しく、名前があります。
新宿駅西口のカリヨン橋見てて、脳内変換した名前だというのは、内緒です。
──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。