雨戸を開け、障子を開け。
空を見上げればもう、雪は止んでいて。
昇っている朝日を、雪は眩しそうに見上げた。
己の所為で、無理をさせてしまった詠人は、未だ、起き上がれぬようで。
主人への、詠人の不調の言い訳は、風邪とか何とか、そんな物でも通用するだろうかと考えながら彼は、道場へと向かった。
初冬の、冷たく、ピンと張り詰めた気で満たされたそこに、壁に掲げられた木刀を手にした雪は一人、立つ。
一一彼は、先程、起き出して来たばかりだ。
詠人は未だ、床にいる。
なのに、往来へと面した道場の門が、何故か開けられている事に嫌な予感を覚えながら雪は、上座の床の間に設えられた神棚へと一礼をして、正眼に、木刀を構えた。
半眼の瞳をし、振り上げた木刀を、ダンっ! と激しい踏み出しと共に彼は空(くう)へと振り下ろす。
数度、そんな事を彼は繰り返した。
「折戸殿」
……と。
何時からそこにいたのか、誰もいなかった筈の道場の片隅に、主人の姿があって、初老の侍は不機嫌そうな声で、雪を呼んだ。
「………何だ」
掲げた木刀を静かに下ろし、ぽい、と主人へと放り投げ。
隅の方に置いておいた本身を、腰へと差しながら、雪は主人を振り返る。
「一寸目を離した隙に。……何でござるか、そのザマは」
冷めた目をして向き直った雪に、主人は、雪以上の冷めた目をしてみせた。
「…何がいいたい?」
「拙者、夕べは胡子殿と飲み過ぎましてな。帰宅が大分、遅れまして」
「…………だから?」
「一一お楽しみだったようでござるな」
「聞いてたのか、お前」
「……遊びを致すな、などと、野暮は云いたくないでござるが。せめて、お相手くらい選んでは頂けませぬか? 『雪之丞様』」
「止めろってんだよ、その呼び方」
一一主人の冷たい眼差しは、どうやら、夕べの『コト』に起因しているようで。
嫌味ったらしく名を呼んだ主人に、雪は、苦虫を噛み潰した。
「雪之丞様は雪之丞様でござろう?」
「今更お前さんに、様付けで呼ばれてもな。腰の座りが悪くなるだけだ」
「……御自身の御出自も考えずに。何処の馬の骨とも判らぬ、しかも男と同衾なされるなどと……。醜聞の種を拵えて歩いて、楽しいでござるか?」
「俺に、説教しようってか? あいつは別に、何処ぞの馬の骨って訳じゃあ、ねえと思うが? とっくの昔にどうでも良くなった、家の話なんざ今更持ち出すな」
「詠人殿は、得体の知れぬ相手だと、云いたいだけでござるよ。お家の事は、どう足掻こうと消せぬでござるし」
「惚れた相手と、寝ただけだがな、俺は。誰だろうと、文句は……一一」
「一一拙者は、黙認しかねるでござるっっ」
不機嫌そうな主人と、それ以上に不機嫌そうな雪とのやり合いは、暫くの間、続いたが。
「口を挟むんじゃねえよ。これ以上は」
低い呟きと共に、雪の左手が刀の鞘に伸びたのを見て、主人はむっとしながらも、押し黙った。
「…………申し訳が立たぬでござる……」
「無用な忠義なんざ、いい加減放り出せ」
これ以上は恐らく、何を云っても無駄だと溜息を付きながらも、情けない顔をした主人に、さらりと雪は云って。
「朝飯でも、食うとするか」
一つ伸びをして雪は、さっさと道場を後にした。
一日で、すっかり溶けてしまった初雪を、名残り惜しいと思い出しながら。
本所松坂町の一膳飯屋へ向かう為、詠人は通りを歩いていた。
一昨日の睦事の所為で、伏せってしまった昨日、やけに天気は良くて、初雪は全て、淡く消えてしまったけれど、今日も又、雲行きは良いとは言えぬから、又、雪が降るやもと期待をしつつも、早く用を足して帰ろうと、彼の足取りは早まった。
主人の道場に住まうようになってから、こうして時折、詠人は本所松阪町へと出向いている。
雪と関わり合いがある、と云うのが、理由の大半なのだろうがそれでも、飯屋の娘お手奈にも、辰巳芸者のお芹にも、彼は良くして貰っていて、野菜だったり魚だったりが安く手に入るから、時々取りにおいで下さいよ、と、お手奈に云われているが故。
この二月の間に知り合った人々に、随分と頼ってしまっているなと思いつつも彼は、生活の事は、己だけの問題ではないからと、有り難く、彼や彼女等の言葉に甘える事にしていた。
だから、そんなこんなで、彼は往来を歩いていて。
その通りの角を曲がれば、お手奈のいる飯屋が見えて来る、と云う所まで、辿り着き。
が、少々疲れを覚えて彼は、往来の隅で、つ、と立ち止まった。
一昨日の夜の『あれ』の痛手を、彼は完全に癒した訳ではない。
一人きりで寝起きをしていたならば、恐らく今日も、寝たきりを決め込んでいただろう。
しかし、主人の手前もあるし。
雪に、気遣わし気な顔をさせるのも嫌で。
少しばかり無理をして起き出し、主人と雪が、何やらキャンキャンと、伯父と甥がやらかすような言い合いをしている隙に一一彼等の言い合いが、己と雪との関係に端を発していると、詠人は気付いていないが一一、彼は道場を抜け出して来ていた。
「早く……帰ろう……」
商家の軒先を支える外柱に片手を付いて、詠人は肩で息をする。
雪が、降り出してしまうかも知れない。その前に、戻らなければ。
でないと、彼に、心配をさせてしまう……と。
詠人は、直ぐそこにある飯屋を目指して、又、歩き出した。
一一あの日、午後になって目覚めた時。
傍に、雪の姿はなく。
だが、替わりに、と云わんばかりに、枕辺には盆が置かれており、溶け掛けた雪兎が、それには乗っていた。
柊の耳に、猫擬の実の目を付けた、可愛らしい雪兎、が。
……塗りの盆の上に乗っていた、溶け掛けの兎を思い出して、詠人は、ふんわりと笑んだ。
思っていた以上に優しくて、子供のような処のある雪の面影をも、彼は胸に浮かべ。
又、雪が舞ったら、雪は兎を作ってくれるだろうかと考えつつ、一膳飯屋の、暖簾を潜った。
「こんにちは」
「あ、英さん」
ろうけつ染めの暖簾を手で払い、ひょいと顔を覗かせた彼を、お手奈が出迎える。
お手奈の声に、ああ、そう云えばここでは未だに、英と云う名で通していたのだったな、と一瞬の違和感を、彼はそう会得したが。
普段は、そんな偽りの名を通しているのだと伝えた事を汲んでくれた雪は、お手奈やお芹や六には、己の事を、『英』と紹介したのに。
どうして主人には、『詠人』と云う名の方を、伝えたのだろうと、おや、と詠人は、内心で首を傾げた。
「あのね、英さん」
つらつらと、どうでもいい事を考えつつ、娘の顔を眺めていた彼を、低く、お手奈が呼んだ。
「ん?」
「実は、ね、昨日、変な目付きしたお侍さんみたいな人が来て。英さんの事知らないかって、しつこかったの。ここに時折立ち寄るって聞いた……って」
「変な目付きのお侍?」
「うん。確かに、ここには良く来る人だけど、住まいまでは知らないって、突っぱねたんだけど……。本当にしつこくって。どうしても、英さんに会いたいみたいだったから、又、今日も来るかも。だから、早く、小石川に戻った方が、いいと思うの。雪さんの事も、色々と聞きたい風だったし」
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