何を云ってやっても。
こちらが聞く耳を持たぬと判っていても尚、諦め切れぬのか。
今日も又噛み付いて来た主人と、『軽い』言い合いをして、ふと気付いてみれば。
屋敷の何処にも、詠人の姿はなく。
今日は、あの薮医者の所には行ってねえ筈なんだが、と、思案をして。
ならば本所か、と、お手奈の飯屋を目指し、雪も、松坂町を目指した。
詠人も子供ではないのだから、遣いの一つや二つ、黙っていてもこなすだろうが、良いとは言えぬ空が又、一昨日のように、冷たい雪を落として来そうだったから。
傘も持たずに出ただろう彼を、迎えに出てやろう、そう思っての事だった。
皆、考える事は同じなのだろう、雪が降りそうだから、と、人々は家路を急いでおり、往来を行く影は瞬く間に減る。
本郷を抜け、上野辺りに差し掛かる頃には思った通り、ちらちらと粉雪が舞い降り始めたから、暮れて来た通りにはもう、雪以外の人陰は消えた。
一一雪が降るのを見越して来たから。
草履でなく、高下駄を突っかけてはいたが、詠人を捕まえ、小石川に戻る頃にはきっと、足下は泥だらけになるだろうと、チッと渋い顔をしながら、雪は、着流しの裾の端を、絡げて帯へと挟んだ。
うっすらと白くなり始めた往来に佇む、着流しの黒の中に、ポンと、通し裏※7の紅梅が色鮮やかに浮かぶ。
片腕を袖から仕舞い、襟の合わせに掛け、出したままの手で彼は、パン、と蛇の目傘を振った。
小気味よい音がし、藤色の蛇の目が開く。
細雪舞う中、惚れた相手を迎える為に、こんな風にして往来を行くのも悪くはないかと、肥前の踊り歌を小さく口ずさみつつ、彼はゆるりと先に進んだ。
だが、そんな上々だった彼の気分は、本所へと続く道の角を、幾つか折れた時に、損なわれた。
人気の絶えたその道を、ふいと曲がったら。
早々と店仕舞いをされた商家の軒先伝いに、急ぎ足でこちらへと向かって来る詠人の姿が見え。
安堵を覚える間もなく、詠人に寄り添っていた、何処ぞの門弟風の男に、機嫌を逆撫でられ。
目を凝らして見遣った男の気配に、記憶を掘り起こされた雪は、手にしていた蛇の目を後ろに放り投げた。
細雪をまき散らして、傘が、道の直中に落ちる中。
「……詠人」
間近に迫った想い人を、雪は呼んだ。
「……あ。雪」
呼び掛けられ、伏せ加減にしていた面を詠人は上げ、小走りに掛けて来た。
近付いて来た彼の手を、ぐいと強く引き、背へと廻し。
無言の内に雪は、刀を抜く。
「……雪?」
「あれは、誰だ?」
何を急に、と訝しんだ詠人に、雪は抑揚なく云った。
「彼、は……その…………一一」
「一一何故、答えられない? あいつの気配は、二月前、菊川の長屋を襲った忍びのそれと同じだ。……訳があるのか? 答えろ、詠人っ!」
詠人を守るように歩いていた時とは一遍した、鋭い眼差しになった男を見据えつつ。
雪は、声高な声を放つ。
「……雪…。彼は……一一」
「一一お待ちを。折戸様」
苛立つ心を形にしたような、尖った詰問に。
唇を噛み締め、詠人は俯いたが。
彼等の間に割り入る風に、男が、雪の名を呼んだ。
※7 通し裏=男物の着物の裏地の事。
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