今日は患者も来ないようだから、と、医師の胡子が道場にやって来て、必ずや長丁場になる囲碁を、主人と打ち始めてしまったから、やはり、縁側で手枕で横たわっているセツより離れ、エドは、胡子の孫の、凱と瑠璃の兄妹と、庭先で遊んでいた。
 猫の額よりは広いその庭の、日陰に残る雪を掴み、待った、だの、それは待てぬ、だの、不毛なやり取りを交わしている大人達を冷やかしながら、子供達は転げ回り。
 昼寝の邪魔だ、と云わんばかりに時折薄目を開けて、思い出したように煙管へ手を伸ばすセツを構いつつ。
 今日の夕餉は何にしようかと云った、何処ぞの細君のような事を考えながら、エドは、暮八つ時を、過ごしていたが。
「頼もうっっ!」
 まるで、道場破り宜しくの如くな大声が、道場の上がり口から聞こえて来たから。
 全ての手を止めて、彼は、声の方を振り返った。
「何処の馬鹿だ……?」
 何者かの大声は、セツの昼寝を打ち切らせるには充分過ぎる大きさで。
 やれやれ、と、煙草盆に煙管を放り投げて、セツが起き上がった。
「何事でござるかな」
 聞き覚えのない声に、主人も又、首を巡らせたが。
「逃げるか、お主っっ」
「武士が、後ろを見せたりはしないでござるっっ」
 勝負を放り出すのか、との胡子の呷りを受け彼は、縁側から立ち退く事、叶わなくなり。
「俺が、見て来てやるよ」
 袖から引いた両の腕を、胸元の内よりぶら下げた、だらしのない格好で、セツが、道場へと消えた。
「頼もうって?」
 そんな大人達の様子に、雪玉を掴んだままの、瑠璃が首を捻ったが。
「お願い、と云うような事」
 エドが噛み砕いてやれば、子供の興味はあっさりと逸れたらしく。
「……瑠璃の卑怯者っっ」
 遊びの手を止めていた凱に、瑠璃が握っていた雪玉が投げられ、子供達の騒ぎが、又激しくなった。
 くすくすと、エドは、そんな子供達の姿に忍び笑いを洩らす。
「……エ一一。詠人。一寸」
 が、穏やかな風情の彼を。
 道場から戻って来たセツの、強張った声が、振り向かせた。
 

 

 セツに呼ばれるまま、従い、道場を覗けば、そこには先程の大声の主らしい侍が、どっかりと座る姿があった。
 大柄と言えるだろうセツよりも更に、身の丈の立派な大男で、身なりも良く。
 こんな人物に知り合いはいないのだけれど、と思い煩いながら彼は、男の対面に座った。
「お前に、用があるんだと。ここの事は、お手奈の飯屋で聞いて来たそうだ」
 直ぐ隣に腰下ろしたセツが、そう言い終わるのを待って、エドは、改めて男を眺める。
 すれば男は、ためすすがめつ、エドを見つめ。
「英……殿?」
「……はい」
「……詠人殿、ですね」
 彼の『名』を呼んだから。
 その瞬間、刀の鍔に掛けられていたセツの指が動き、チン……と音を立てて、白刃が鞘から覗いた。
「あ、その。……えーっと……。何から話せばいいのか……」
 問答を交わす余地も与えられず、抜かれ掛けたセツの刀に、男は慌て、口籠り。
 暫しの思案の後。
「俺は、その……」
 彼は、懐剣を取り出し、二人の前に置いた。
 一一黒一色の塗りがなされたその懐剣を、手に取れ、と言いたげな顔を男がしたから。
 一目で高価と判る拵(こしらえ)※16のそれをセツが取り上げ、柄を少し、引いた。
 すれば。
「……あんた……」
 鞘の中からは、はばき※17に彫られた、表葉の三葉葵※18が顔を覗かせ。
「家綱、と云います」
 その紋の意味する処を、視線で語り合ったセツとエドの二人に、男は、己が名を名乗った。
 

 

 ※16 日本刀の外装の事を総じてそう呼ぶ。
 ※17 刀を構成している部分の、名称の一つ。図解でないと説明出来ないので、鞘に隠れている刃の部分の、うーん、鍔との付け根辺り、と思って下さい。
 ※18 江戸徳川家の家紋。他の徳川御三家(尾張・水戸・紀州)とは、三葉葵の葉の裏表が、違ってたりするんだとか何とか。

 

 

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