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						 本所松阪町にある、その一膳飯屋から、目黒不動尊の参道にある茶店まで、団子を買いに遣わされたこの侍。 
						 名を、折戸雪之丞(おりとゆきのじょう)と云う。 
						 生まれはこの江戸でなく、薩摩の方らしく。 
						 家柄も、決して悪くはないらしい……のだが。 
						 本人が黙して語らぬから、仔細は良く判らぬが、複雑な事情にて、お家とも生家とも縁を断ち、江戸へ上り、今では食い詰め浪人と云う身分だ。 
						 が、当人は、明るいとは言えないだろう己が過去など忘れてしまったかのように、先程の一膳飯屋一一あそこは、彼の馴染みの店だ一一や、ひょんな事から知り合った辰巳芸者のお芹が座敷に上がる料理屋に拵えてしまったツケを、どうやって払おうかと首を捻るのが日課と云う、気楽な生活を送っている。 
						 ツケの払いが滞り過ぎて、今日のように、お芹や、飯屋の娘お手奈に、良いように使われる事もままあるが、文句を云いながらも、これで勘弁して貰えるんなら、と、その辺りの人間関係を、持ちつ凭れつ、でやり過ごすのも、彼のような気質の男には、気楽であろうと伺える。 
						 だが、それでも。 
						 本所松坂町※2から、目黒不動尊※3までの道行きを、団子一つの為に、と云うのは、かなり難儀な事であるから、往来を行く彼の表情は、決して明るくはなかった。 
						 腰に差した本身※4が重い、と、侍らしからぬ怠惰な事を考えつつ、鈍い足取りで、彼は目黒を目指す。 
						 ここの処、口入れ屋から廻って来る用心棒の仕事も、今一つ乗り気のしない物ばかりで、実入りがないのが痛かった、と、ぶつぶつ口の中で言い訳をしながら。 
						 本所を発って、二刻。 
						 午の刻が終わりそうになる頃、漸く彼は、不動尊の参道へと辿り着いた。 
						  
						  
						 一一ちょいとした行列の出来ている茶店で、頼まれた団子を、無事買い求めた後。 
						 ふと、彼は気紛れを起こした。 
						 滅多な事で彼は、そのような気紛れを起こしはしないのだが。 
						 折角来たのだから、たまには参拝でもして行こうかと、団子の包みを結んだ紐を、ぶらりと肩に担ぎ、境内へと続く石段を昇り。 
						 団子の釣り銭を、賽銭箱に放り込んで、ふっ……と。 
						 彼は、苦笑いを浮かべる。 
						 気紛れを起こしたはいいが。 
						 柄にもない事をしている己が、やけに滑稽に思えて。 
						 賽銭は入れたけれど、手を合わせるつもりになぞなれなくなり。 
						 苦笑を浮かべるしか、持て余した己が身の処し方が、彼には見つけられなくなった。 
						「馬鹿馬鹿しい。……とっとと帰るとするか……」 
						 はあ、と肩で息をし。 
						 天を仰いで、彼は踵を返す。 
						 縁日の日でもなく、櫻の季節でもないその日の境内は、閑散としていたから。 
						 彷徨うような足取りで、彼は石段を降りようとしたが、その時。 
						 かなりの勢いで、段を駆け上がって来た、若侍風の格好をした男とぶつかった。 
						「……っと」 
						「あ……。申し訳ありません」 
						 ドン、と肩と肩が触れ合った瞬間、姿勢を崩した青年を、彼は支えてやる。 
						 伸ばされた彼の腕に触れられた刹那、はっと青年は身を強張らせたが。 
						「大丈夫かい?」 
						「…はい」 
						 彼の顔を見るや、全身の力を抜き、色のない、切羽詰まった表情で、青年はこくりと頷いた。 
						「…………どうか、したのか?」 
						 一一その顔が、余りにも何かを思い詰めているように見えたから。 
						 青年から手を離さず、彼は問うた。 
						「いえ、その……。一一……あ…」 
						 雪之丞の問い掛けに青年は、ふるふると首を振り、が。 
						 はたと後ろを振り返り、息を飲み、彼の手を払って、駆け出そうとした。 
						「おい、待ちなっ。何を……一一」 
						 しかし彼は、その腕から青年を逃さず。 
						 彼が見ていた方角へと眼差しを流し。 
						 一人の侍が、そこに居るのを見るや否や、青年を己が背へと庇い、腰の刀に手を添えた。 
						「追われてるのか?」 
						「……はい」 
						 穏やか、とは世辞でも言えぬ侍の眼光を見定めて、庇った青年に、そっと彼は囁く。 
						 すれば、青年からは、肯定が返された。 
						 どうするべきか、と考え込む余り、表情さえ無くした、だがそれでも美しいと思える程整った青年の面を肩越しに見遣り、ぽいっと、団子の包みを預け。 
						「手、貸してやるよ」 
						 既に構えを終えた、青年の追っ手へ向けて、雪之丞は刀を抜いた。 
						「で、でも」 
						「いいから。黙ってみてな」 
						 己の追っ手の力量を、計る事は青年にも出来たのだろう。 
						 無理だ、と、雪之丞の着物の袖を、彼は引いたが。 
						 ぱっとその手から逃れ、雪之丞は右肩を引いた上段に、寝かし気味に剣を構えた。 
						 一方侍は、八双の構えを取った。 
						「……ああ。あんた…………一一」 
						 相手の取った型が、雪之丞の記憶の中の一つと、一致を見せる。 
						「一一参る」 
						 が、彼の呟きに、男は耳を貸す事なく。 
						 羽織も脱ぎ捨てず、相手が踏み出して来たから、彼は、胸の内にて掛け声を上げ、刀を突き出した。 
						 一一剥き身の刃が翻る速さは、男よりも雪之丞が勝っていた。 
						 しかし、明らかに突きの構えと判る型を取った、雪之丞から繰り出された直突きを、取り掛けていた八双正面構えを崩して男は払った。 
						 ギン……と、本身同士のぶつかり合う音が、石段の辺りに響く。 
						 境内を囲む緑の木々を、さわさわと鳴らした風が、鋼の打ち合いを掻き消して暫し。 
						 無言のまま、すっと刀を鞘に納め、侍は踵を返し、石段を降りて行った。 
						「ヤな野郎だな……」 
						 己と雪之丞の剣の力量を図り、このまま立ち合うのは得策でないと踏んだのだろう男に、チン……と、鍔と鞘の触れる音を立てつつ刀を引いた雪之丞は、低く悪態を吐いた。 
						 立ち去る侍の背中は、やり合えば確実に騒ぎを起こすだろう程度には、双方の力量は近いが、背中を見せる事を厭う程、拮抗している訳ではない、と物語っていたから。 
						「あの……。有り難うございました。御助勢、忝なく……一一」 
						 侍が、無言で去って行った事実に、ほっと息を付き。 
						 雪之丞の背中で庇われていた青年が、頭を下げた。 
						「いや、礼なんざいい。それよりも、これも何かの縁なんだろうから、送って行こうか? 昼日中から段平振り回すような相手に、追い掛け廻されてたんだろう? これしきの事じゃ、諦めないかも知れない」 
						 強張っていた顔に、漸く微笑みを浮かべた相手を、雪之丞は言葉で制した。 
						「でも……」 
						「遠慮してどうするよ。又、あれに襲われたかぁないだろう?」 
						 切羽詰まっていた時でさえも、美しいと思った青年に、微笑まれて一層、美しい、と云う感想を深め、雪之丞はその手を掴んだ。 
						「何処の寺だ? ここのお不動さんじゃあなさそうだな。ちょいと、年は重ねちまってるんだろうが、その顔だったら充分、だろうから……」 
						「……は? 寺?」 
						 不躾に手首を捕まれ、戸惑いを滲ませた青年は、彼の言葉に、怪訝な顔をした。 
						「何処の寺の稚児だって聞いてんだよ。その成りで、その顔だから……一一」 
						 青年の拵えた表情に、負けず劣らずの怪訝を浮かべ、雪之丞は思った事を、さらりと口にした。 
						 一一不意に起こした気紛れの所為で、助ける事となった青年の面差しが、余りにも美しかったから。 
						 青年の正体は、何処ぞの寺の僧正か何かに仕える稚児なのだと、彼は、思い込んでいた。 
						「………………。誰が、稚児だと?」 
						 しかし、その思い込みは、無礼千万でしかない早とちりだったらしく。 
						 自由なままある右手を持ち上げた青年は、掌を雪之丞の頬目掛け、勢いよく降り下ろした。 
						  
						  
						 ※2は、現・東京都墨田区。両国国技館付近。※3は、現・東京都目黒区下目黒。両箇所の行き来、徒歩では結構な距離です。 
						 ※4 真剣の事。でも当時もそう云ったかどうかは、知らない(汗)。 
						 
						  
						
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