「……悪かったって。勘違いした事は、この通り謝る。その、な。あんたが女形の役者にしたいくらい、佳人だったから……」
「もう、いいです、その事はっ」
 一一余りと云えば余りの勘違いに、『制裁』を加え、加えられした後。
 うっすらと腫れ上がった頬を押さえた雪之丞と、未だに腹を立てている風な青年は、本所松坂町へと向かうべく、往来を歩いていた。
 幾度となく、言葉を変え、口調を変え、雪之丞は青年へと頭を下げたが、相手の機嫌は中々、元には戻らぬようで。
 人目を引くやり取りを交わしながら、暮れ行く江戸の町を、足早に二人は通り抜けていた。
 不動尊にての出来事の後。
 自業自得で頬を張られた雪之丞は、それでも青年の手を離さず、取り敢えず付いて来い、と、青年を説得する事には成功した。
 面倒事も、厄介事も厭う雪之丞だから、別段、そのまま青年と別れても良かったのだけれど。
 胸に一つ、思う事があり。
 どうしても、掴んだ手を離す事が叶わなかった。
 一方、若侍風の彼も彼で。
 雪之丞の無礼な言い種に、一度は甚だしく立腹したものの、窮地を救われた恩も有り、あの侍が又、姿現したら、と云う恩人の言葉も気に掛かりして、今夜だけでも住まいを離れろ、との申し出に賛同したので。
 不毛なやり取りを交わしつつも、彼等は、こうしている。
 とは云え、何時までも、実を結ばぬやり取りを交わしていても、埒があかぬから。
「ああ、処でな」
「……はい?」
「お前、名は?」
 多少は互いの事を知ろうと、雪之丞は名を尋ねた。
「その……。私、は……」
 すれば、きっと前を向いていた青年は一転、言い淀み、俯いた。
「云いたくない、か?」
「いえ、そう云う訳では…………」
「無理に尋ねようたぁ思わないが。人間、色々と事情ってのがあるしな」
 その様子から、口にしたくないならば、と雪之丞は唇の端で笑ってみせたが。
 正体を隠したいが為に、名を云わぬのではないと、青年は首を振った。
「…………そのぅ……そうでは、なく、て」
「じゃあ、何だ?」
「私の名は少々、風変わり、なので……」
「ほう。どんな風に?」
「詠人、と云う……その……」
「…………確かに、ちょいと変わってる、な。えいと、ねえ……。歌人みてぇな名だ」
 青年が音にした名を聞き、それは確かに風変わりだ、と雪之丞は頷く。
「一寸、事情が、ありまして……」
 すれば、青年一一詠人がはにかんだから。
 雪之丞は、ゆるく笑んでやった。
「気にするこたぁねえだろ。親から貰った名なんだろ?」
「…ええ、まあ……。普段は、詠人の詠を、英の字と偽って、人の字を取り去って、ひで、と名乗ってますけれどもね」
「ふうん……。じゃあ、何で又、俺には本名を?」
「助けて頂いた方に、偽りの名を名乗るのも、失礼かと思いましたから。……で? 貴方の名は?」
「折戸雪之丞。馴染みの連中は、ゆきさん、とか折戸殿、とか呼ぶがな。……お前さんには一つ、いい事教えてやるよ。俺の本当の名前も、『ゆきのじょう』、じゃない」
 救われた事に対する誠意の代わりに、と、少々風変わりな本名を名乗った相手に、笑ったまま雪之丞は、己が秘密を一つ、告げた。
「え?」
「ま、俺にも少しばかり事情ってのがあって。本当はな、ゆき、じゃなくって、せつ、って読ませるんだと。餓鬼の頃、親父殿がそう云ってやがった。本当の名を聞かせてくれた、返礼だ。あ、だが、これから行く飯屋の連中には、黙ってろよ」
「はい。そう申されるなら…」
「…詠人。お前な、その物言い、止めろ。肩が凝って来る。素浪人の俺相手に、堅苦しく行ったってしょうがねえだろ。今晩一晩、一緒に過ごすんだしな」
「そうで……一一。そう、だね。じゃあ、お言葉に甘えて」
 一一お互い、少しばかり、それぞれの『秘密』を打ち明けて。
 堅苦しいのは嫌だと云った雪之丞に、詠人が同意を示した時。
 丁度、申の刻になろうとする頃合い。
「あ、雪さん、おそーーーーーいっ! お芹姉さん、すっごく怒りながら、お座敷行ったわよー」
 提灯に火を灯そうとしていたお手奈が立つ、本所松坂町の飯屋に、彼等は辿り着いた。

 

 

 座敷が終わるまで長屋に帰るな、と言い残したらしいお芹の言い付けを、渋々ながら守る形で、飯屋にて、夕餉を取っていた雪之丞と詠人に、一人の町人が近付いて来たのは、銚子が数本、空になった頃だった。
「へー。それで。雪さんに『騙されて』、本所まで来ちゃったんだ、英さん。何処だっけ? 住まい。渋谷村(現・東京都渋谷区)の方だって云ったっけ? あんな、田圃と森しかない田舎で、何やってんの?」
「うるっさい。騙されてってなあ、どう云う言い種だ。人聞きの悪い」
 ちゃっかりと、夕餉の輪に混ざり、彼等の頼んだ銚子の相伴に預かった彼に、雪之丞が渋い顔をした。
 一一遊び人風のこの男、名を、六と云う。
 本当の名なのかどうなのか、それは又、判らない事だが。
 この飯屋の常連客は皆、彼の事をそう呼んだ。
「だって、本当の事じゃん」
「……ほーお。本当の事、な。六、ならお前の正……一一」
「一一あーーーっ。そうそう。英さんさ、雪さんにここまで連れて来られた理由は判ったけど。誰か、心配してる人はいないのかい?」
 こんな素浪人の云うなりになって、可哀想に、と、けらけら冗談を云った六を、雪之丞はちろっと睨んで、何かを云い掛けたが。
 まずい、と云う顔を、六はさっと拵え、わざとらしく話題を変えた。
「大丈夫。私は一人身だし、一人住まいだから。……ああ、でも明日は早くに戻らないと、子供達が心配するかも……」
 雪之丞と六の掛け合いを、横目で眺めて、詠人は笑いを噛み殺し、少しばかり遠い目をした。
「子供達?」
「あ、云わなかったっけ? 渋谷村の方にある寺子屋でね、近所の子供達に読み書きを教えているんだ」
「何だ、お前さん、先生、か。らしいっちゃらしい、が」
 お手奈が盆に乗せて運んで来た、新しい銚子を傾けながら、雪之丞は何度か首を振り。
「なら明日、巳の刻頃までに、渋谷村まで送ってやるよ」
 今宵の酒は、浅めにしようと、彼は呟いた。

 

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