腹違いではあるけれども、兄弟の対面をし、家光公の命を破って、あの伊賀者が動いていた理由を、家綱が語って帰った後。
憂鬱そうな息を洩らしながら、エドは台所に立った。
次代の公方として、余りにもらしからぬ人となりを家綱はしていたけれど、やはり、今公方様の御長男、お世継ぎ様、として育っただけの事はあるのか、去り際、近日中に迎えの駕籠を遣わすから、と、エドの言い分も都合も聞かず、言い残したが為。
エドは暗い顔をしてそうしているし、セツは、機嫌を損ねたまま、囲炉裏のある間にひっくり返っている。
一一来春には、恐らく将軍に就いているだろう彼が、父に疎まれた兄を庇うと云うのだ、口で云うよりも遥かに困難は多いだろうが、決して不可能ではなかろうから、エドの命の無事を得る、と云う事だけを見れば、有り難い申し出なのだろうけれど。
家綱は、これまでと変わらず、セツがエドの隣に居続ける事を、良くは思わぬだろうし、元より、将軍家嫡男である家綱が匿う、将軍家の御落胤の道行きに、一介の素浪人としても、幕府に目を付けられている有馬家の子息一一しかも、生家を捨て…否追われた、子息一一としても、彼が付き従う事など不可能だから。
それは、則ち……一一。
………………故に。
エドの面持ちは暗く、土壁の方を向いて寝転がっているセツの背中は、近付き難く。
これから先も変わらずに、続いていくのだろうと思っていた月日に、終いが見え始めて来てしまった事に彼等はそれぞれ、思いを傾けていた。
有無を言わさずに、近々迎えを寄越す、と云ったあの男が、どう間違っても家光の嫡男である以上、抗う事は出来ぬだろう。
二人、手に手を取って、江戸から落ちると云う道が、残されていない訳ではないが。
「……無理、だ…そんなの……」
逃げるなんて、と、土間の片隅でエドは一人、弱々しく首を振った。
江戸から落ち延びて、二人ひっそりと暮らすだけなら、上方へ行こうが北国へ行こうが、どうとでもなるだろうけれど。
己の所為で、セツに、例えば主人を見捨てろだなどと、それまでの生の半ばを、たった一人で生きて来たエドに、言える筈もなく。
させられる訳もなく。
さりとて潔く、別れを受け入れる事など、出来そうにもなく。
一一本来ならば、遠の昔にそうするベきだったのだろうように、この小石川から……否、江戸から、己は姿を消すのが正しい道だろうと、思いはすれども。
そのような道など、エドには選べなかった。
セツも又。
黙って消える事を、許しはしないだろう。
…………だから。
例え、後数日と限られた時でしかなかろうとも、別れを迎えるその刹那まで共に在る事を、エドは選び。
何も、云いはしなかったけれど、セツも同じ心根を持ち。
彼等は、片手の指でも余る程の日を、常のように、過ごし。
やはり、粉雪が待っていた、慶安三年(1650)の、霜月の終わりのその日。
「長らく、お世話になった事、忝なく…………」
小石川の道場を訪れた、家綱の使いの者達を前に、エドは、セツと主人に、深く頭を下げた。
無言のまま、主人はエドに、一礼を返し。
「……行くのか」
袖より懐へと仕舞ったままの両腕もそのままの、無礼な態度でセツは、エドを見つめた。
「…………セ…一一雪之丞、殿。お暇、致します」
揺れているのか、そうでないのか、一見しただけでは判らない彼の瞳を見つめ返し、が、直ぐに眼差しを逸らして、エドはそう云い。
くるり、踵を返すと、門外に控えていた駕籠に乗り込んだ。
一一出立を告げる声が雪空に響き。
一行の姿が消え去る前に、セツはそれに背を向ける。
「宜しゅうございましたな。雪様もこれで、肩の荷が降りたでござろう?」
つまらなそうに、道場の中へと入って行くセツへ、主人が何処か晴れ晴れとした声を掛けた。
が、返されたのは、無言の応えで。
「雪様」
諌めるような声を、主人は放ったが。
「……うるせぇ」
少し、拗ねているような感じの罵りを、セツは零した。
「雪之丞様」
「……嘆いてどうする…とでも、云いたいか?」
「お相手と、御自分の事を振り返って、良く鑑みられるがいいでござる」
あからさまに機嫌を損ねている風なセツに、主人は、共に在ろうと、所詮は益のない二人だったのだと、そう諭したげな言を告げる。
「同じ武家の家に産まれて、似たような境遇だったってだけだろうが。立場立場って……一一」
これを機に、すっぱりと、エドの事を忘れさせようとする主人に、セツは、腰の刀に手を掛けて見せながら、振り返ったが、ふと、斜睨んだ主人の向こうに、何時もの、何処ぞの門弟のようななりをした、影の姿を見つけて言葉を切った。
「未だ、何か用か」
先程、エドを連れ去ったと云うに、これ以上、ここに一体何の用がある、と、主人を睨んだ眼差しを、セツはそのまま影に向ける。
しかし、セツの物言いに、影は不審げに眉を顰め。
「未だ、とはどう云う意味合いだ? 俺は、詠人様をお迎えに来たのだが」
御落胤様は何処だと、彼は視線巡らせた。
「これは異な事を。詠人様なら、たった今、迎えのお駕籠に乗って行かれたでござるよ」
その言葉に、影が浮かべた以上の怪訝そうな顔を、主人が作った。
「そのような派手な事を、する訳がなかろう? 詠人様が、止ん事無き方だと知らしめて歩くような真似は出来ん」
朝から舞っていた粉雪を避ける為に被っていた笠を取り去りながら、苛立った声を影が上げた。
「…………退け」
「雪様?」
「雪之丞様?」
一一その、影の。
尖った声が、雪空に消えるや否や。
高下駄を履くのももどかしそうに、三和土にセツは立ち。
主人と影の二人を押し退け、往来へと飛び出して行った。
Next Back
Home
|