中々帰って来ないお芹を待っている間に。
本所菊川の弥勒寺に程近い、裏寂れた路地に面した小汚い長屋が、ここ暫く、雪之丞が住まいとしている所だった。 |
一一戌の刻を遠に過ぎた、夜半の静寂の中。 彼がそうしたように、薄い戸一枚を挟んだ向こうでも、土を滑るような足捌きが微かに聞こえ。 鞘走りの閃きも見せずに振るわれた刀が、ザンっ! …と云う激しい音と共に、戸板を割った。 「チッ…」 バタバタと、二つに割れた事を示す雑音を立てながら倒れた戸の先を見遣り、雪之丞は舌打ちをする。 戸締まりをしようとしていた刹那に感じた、不穏な気配の主を、問答無用とばかりに、戸板と共に切り捨てた筈だったのに、翻った切っ先は、小太刀の弾きに逸らされたようで。 不穏な気配の主は、自身の眼前に白刃を構えたまま、毛筋程の手傷も追わず、路地に立っていた。 「昼間の野郎といい、てめえといい。うるっせえの何の……」 忍び装束、と判る黒い衣装に身を包み、立ち尽くしている男に、不機嫌そうに雪之丞は云った。 「…………そう思うなら、手を引け」 返された声音に、抑揚はなかった。 「戯れ言に貸す耳は、持ってねえな」 「ならば、やり合うのみだ」 「あー、そうかいっ!」 一言、二言、やり取りを交わし。 互い引く気がないと見るや、刀と小太刀の白刃は、再び舞った。 幾度も交わり、時には火花さえ散らし、白刃と白刃は、ぶつかり合う。 「止め……っ…一一」 終わりそうにない斬り合い、少々歩が悪いのか、苦し気に映った雪之丞の面、それらを見て取り、四畳半の隅に身を潜めていた詠人が、声を発した。 「…詠人、様?」 土間へと身を乗り出さんばかりの詠人の叫びに、忍びの男の意識が逸れた。 一一…一瞬の、隙。 「とっとと失せなっっ」 その寸瞬を縫って、雪之丞の剣先が、相手の肩を突いた。 ポタリ……と。 紅い雫が、土間にも路地にも、散った。 一一傷を負った後の。 男の動きは素早かった。 呆気無く小太刀を引き、掻き消えるように、夜陰に溶け。 男は姿を晦ました。 「大丈夫かい? 怪我は?」 素足のまま、土間へと飛び下り、詠人は雪之丞へと駆け寄り。 乱れた髪が幾筋か掛かった面を覗き込んで。 「…………私は君を、何と呼べばいいんだろう……?」 過ぎた安堵に張りの弛んだ体を、雪之丞へと凭れ掛けさせた。 「好きに呼べば良いだろうが。雪でも雪(せつ)でも、何とでも」 こんな時に、何を迷っているのやら、と。 滑り落ちて行きそうな体を、溜息を付きつつ、雪之丞は支えた。
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