中々帰って来ないお芹を待っている間に。
 飲み過ぎてしまった、と云って、詠人が手水に立った隙に。
「……おい」
 やはり、出来上がり掛けている六を、雪之丞は小突いた。
「なんだよ」
「ここの処、な。きな臭い噂とか、お前、聞いてないか?」
「いいや、別に?」
「なら、いいんだが」
「何だってんだよ」
 変な話を小耳に挟んでいないかと、六へと尋ね。
 が、否定が返されるや否や、雪之丞は何事もなかったように、又、銚子を傾けたが。
 尋ねられた六は、それでは納得が行かなかったようで。
「いや、な。お不動さんの境内で俺がやり合った侍、な」
「それが、どうかしたっての?」
 ぽつり語り出した素浪人の言葉に、真剣な面持ちの六は、耳をそばだてた。
「どうも、な。新影流の一門みたいでな」
「へえ。柳生様の? でも……。雪さんとやり合って無事なくらいの新影流の使い手って……その辺の道場の連中じゃなさそうだよな」
「俺もそう思う。余り、いい虫も騒がない。厄介事でなけりゃいいんだが、と思って、お前さんに尋ねてみた。江戸の町で何かあれば、お前の耳になら入るだろう? 違うか? 盗人」
 厄介なもめ事は御免だ、と。
 本音を吐露しながら雪之丞は、目を輝かせてにじり寄って来た六に、その正体をさらりと告げてやる。
「云うなよ、その事っ。誰が聞いてるか判らないってのにっっ」
「ホントの事じゃねえか。一一お前がな、日本橋の白木屋狙うかも知れねえって云うから、食い扶持減るのを覚悟で、口入れ屋が持って来たあそこの用心棒の仕事、断り入れてやったんだぞ。ちったあ有り難く思え」
「良く云うーーーっ。金に困れば、その辺の賭場で荒稼ぎしてる癖に。用心棒の仕事の一つや二つ、断ったって屁でもないだろっっ」
 六と云う町人の正体を、何故、雪之丞が知ったのかは、又別の話だから今は語らずにおくとするが兎も角、彼が盗人だと知っている素浪人に、にやりと笑いながら云われた六の方は、さっと顔色を変え、雪之丞へと噛み付き出した。
「あー……。賭場なー…。ちょいとなあ、この辺の賭場では、稼ぎ過ぎちまったようで。出入り禁止を食らったんだ、この間。ツボ振りで儲けるのは、楽でいいんだが」
「いかさまのやり過ぎだっての」
「ばれなきゃ問題ない」
 しかし、六の反撃も、雪之丞には暖簾に腕押し、で。
「もう、戌の刻かよ……。仕方ねえなあ……。お手奈。お芹に、謝っといてくれ。で、俺の代わりに団子、渡しといてくれるか?」
 遠くより、時を知らせて来た寺の鐘の音に急かされるように、雪之丞は盃を置き。
「平気か?」
 丁度、手水から戻って来た詠人に一声を掛け、立ち上がった。
 

 

 本所菊川の弥勒寺に程近い、裏寂れた路地に面した小汚い長屋が、ここ暫く、雪之丞が住まいとしている所だった。
 西の都、京に有りがちな、鰻の寝床のように細く、が、鰻の寝床程長くもない、狭くて何もない住まい。
「素浪人と云うから……傘張りとか、楊子削りの内職でもしてるのかと思った」
 行灯と、火鉢がぽつり置かれ、隅の方に紙布団が畳まれている四畳半へと案内(あない)され、詠人が率直な感想を洩らす。
「放っとけ」
 内職に手を染めているらしき家の散らかりもない、夏の終わりと云う季節の割には寒々しいそこに、ポンと背中を押して詠人を入れ、戸を閉めた雪之丞は、荒々しい手付きで、心張り棒を取り上げ。
「なあ……。こう云う事を尋ねるのは、野暮だって、よーく分かっちゃいるんだが。お前、一体何者だ?」
 戸にかます筈の棒切れを、そっと、土間のかまどに立て掛けた。
「何者……って?」
「昼間の侍だけなら、まあ、いざこざか何かの果てかも知れない、で済ませられる。だが、今度のはちょいとな。それじゃあ……な」
 徐に、お前の素性は何なのだ、と云った雪之丞に、暗い部屋の中に佇んだ詠人は顔を歪め。
 問い詰めた雪之丞当人は、腰の鞘に手を掛け押し下げ、肘を張りつつ曲げた右手を静かに、柄へと添えた。
 その構えは、目黒不動尊にて彼が披露したそれとは異なり。
「抜刀も、するんだ……?」
 詠人は不安そうに、低く呟く。
「まあ、な。一一いいか? ちゃんと、隠れてろよ……」
 独り言のようなそれに、適当な答えを返し。
 退いていろ、と伝え。
 雪之丞は草履を滑らせながら足を開き、据えるように腰を落とした。

 一一戌の刻を遠に過ぎた、夜半の静寂の中。
 彼がそうしたように、薄い戸一枚を挟んだ向こうでも、土を滑るような足捌きが微かに聞こえ。
 鞘走りの閃きも見せずに振るわれた刀が、ザンっ! …と云う激しい音と共に、戸板を割った。
「チッ…」
 バタバタと、二つに割れた事を示す雑音を立てながら倒れた戸の先を見遣り、雪之丞は舌打ちをする。
 戸締まりをしようとしていた刹那に感じた、不穏な気配の主を、問答無用とばかりに、戸板と共に切り捨てた筈だったのに、翻った切っ先は、小太刀の弾きに逸らされたようで。
 不穏な気配の主は、自身の眼前に白刃を構えたまま、毛筋程の手傷も追わず、路地に立っていた。
「昼間の野郎といい、てめえといい。うるっせえの何の……」
 忍び装束、と判る黒い衣装に身を包み、立ち尽くしている男に、不機嫌そうに雪之丞は云った。
「…………そう思うなら、手を引け」
 返された声音に、抑揚はなかった。
「戯れ言に貸す耳は、持ってねえな」
「ならば、やり合うのみだ」
「あー、そうかいっ!」
 一言、二言、やり取りを交わし。
 互い引く気がないと見るや、刀と小太刀の白刃は、再び舞った。
 幾度も交わり、時には火花さえ散らし、白刃と白刃は、ぶつかり合う。
「止め……っ…一一」
 終わりそうにない斬り合い、少々歩が悪いのか、苦し気に映った雪之丞の面、それらを見て取り、四畳半の隅に身を潜めていた詠人が、声を発した。
「…詠人、様?」
 土間へと身を乗り出さんばかりの詠人の叫びに、忍びの男の意識が逸れた。
 一一…一瞬の、隙。
「とっとと失せなっっ」
 その寸瞬を縫って、雪之丞の剣先が、相手の肩を突いた。
 ポタリ……と。
 紅い雫が、土間にも路地にも、散った。
 一一傷を負った後の。
 男の動きは素早かった。
 呆気無く小太刀を引き、掻き消えるように、夜陰に溶け。
 男は姿を晦ました。
「大丈夫かい? 怪我は?」
 素足のまま、土間へと飛び下り、詠人は雪之丞へと駆け寄り。
 乱れた髪が幾筋か掛かった面を覗き込んで。
「…………私は君を、何と呼べばいいんだろう……?」
 過ぎた安堵に張りの弛んだ体を、雪之丞へと凭れ掛けさせた。
「好きに呼べば良いだろうが。雪でも雪(せつ)でも、何とでも」
 こんな時に、何を迷っているのやら、と。
 滑り落ちて行きそうな体を、溜息を付きつつ、雪之丞は支えた。

 

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