晴れ上がったその翌日。
 五つ時、辰の刻の頃、夕べ一睡も出来なかった為に、赤くなってしまった目を擦り、欠伸をしながら、雪之丞は詠人と二人、渋谷村へと続く道を歩いていた。
 隣では、詠人が何やら、世間話のようなものを語り続けているが。
 その殆どを雪之丞は、拾う事が叶わなかった。
 ……昨夜。
 『曲者』と一目で判る格好をした黒尽くめの男とやり合った後。
 さて、勢い真っ二つにしてしまった戸を、大家に何と言い訳しようと考えながら、藁紐で桟と桟を結び、その場凌ぎの体裁を整え、戸締まりにならない戸締まりをした後。
 困ったような、落ち込んだような、そんな気配を滲ませた詠人を、寝ろ、と薄い布団に、彼は押しやったのだけれど。
 これだけ良くして貰った挙げ句、君を差し置いて布団を奪う訳にはいかないとか何とか、詠人が言い出した為。
 暫くの押し問答の末、そうしなければ相手が引く気配を見せなかったとは云え、大の男二人、仲良く一つ布団で眠る、と云う選択を、雪之丞は選び取ってしまい。
 狭い寝床にて、雪之丞は詠人と共に、横になったのだけれども……どうしたって、一度は稚児と見誤った程の者を、抱く風になってしまった己が寝姿を改める事は出来ず。
 身を捩ってみても、床に付くや否や眠りに落ちた詠人の、月代(さやかき)を剃ってもいない豊かな髪は、鼻先から逃げて行かず。
 静かな寝息は、胸元に忍び込み続け。
 己が胸に縋りながら眠る詠人は。
 決して、岡場所辺りで、一夜の戯れの相手にするような、女人ではないと云うに。
 陥ってしまった、妙な心地は消えず、落ち着く事も、開き直って眠る事も出来ず、と云う理由で。
 眠りを得られなかった雪之丞は、ぼんやりと歩きながら、ぼんやりと、詠人の話を、聞く振りだけしていた。
「……ああ、もう直ぐ渋谷村だ…………って……私の話を、聞いてるのかい? 雪(せつ)」
 そんな雪之丞を、疲れの去った顔をした詠人が一一結局、一晩が明けて、詠人は雪之丞の事を、雪(せつ)と呼ぶ事に決めたらしい一一、ちろり、睨んだ。
 渋谷の村が見えて来たと云うに、何を言い出すのでもなく、適当な相槌だけを返して、ぼんやりと、田園を見つめていた相手に、痺れを切らしたようだった。
「……あ、悪い。夕べ一寸、寝付きが悪くってな……」
 整った顔の相手の睨みは、中々に迫力があり、惚けていた頭を何とか澄み渡らせて、雪之丞……いや、詠人風に云うなら雪(せつ)は、すまん、と詫びた。
「処でな、詠人。ちょいと考えたんだが……。お前、渋谷村に戻って、どうすんだ? 昨日だけで違う手合い二人に狙われたんだぞ? お前が何者か、語りたくないってんなら無理には聞かねえし、どうだっていい事だが、このままお前を置いて、じゃあな、ってしちまうと、これから先の寝覚めが悪そうでな……」
 素直に詫びを告げた方が、きっと得策だ、と、さっさと頭を下げ、雪は話を変えた。
 この先、一体どうするのだ、と。
 すれば詠人は、思案の色を頬に浮かべ。
「……取り敢えず……こうなってしまったから、寺子屋の方は一度閉めるよ。その為に、今日は戻って来たのだし。何処か別の場所に、住まいを変えてみる」
 暗に、行方を晦ますつもりだと、そっと微笑んだ。
「変えるって、何処に」
「宛てなんかないよ」
「案外、いい加減だな」
「仕方ないだろう? 身寄りがある訳じゃないし。物騒な連中に狙われてるんじゃ、何処に行っても人様に迷惑を掛けるだけなんだろうしね」
「…………成程。一一じゃあ、お前。俺を雇ってみないか?」
 行く先の宛てなどないけれど、致し方ない、と云う彼の風情が、刹那儚く見えて。
 立ち止まり、詠人の瞳を覗き込みながら、雪は申し出た。
「雇う?」
「用心棒って奴」
「…………過分な金子の持ち合わせなど、私にはないよ? 君の腕に見合うだけのものは、きっと払えない」
 真直ぐに向けられた雪の瞳を、僅か上目遣いに、詠人は見上げた。
「雇い賃なんざ、適当でいい。俺の剣の腕前なんて、大したもんでもねえしな」
「嘘ばっかり。目黒のお不動様で見た、君の構えは、あれは、島津様の……」
「……日天真正自顕流※5。良く知ってるじゃねえか。…俺は、九州の方の、小藩の出でな。日天真正自顕流は、島津様の処の御流儀だが、あの辺りじゃ珍しくない。だから、どうって事はねえんだよ。で、どうする? 雇うか?」
「一一君の言葉に、甘えてもいいなら」
「なら、決まりだな。とっとと、荷物まとめて来い」
 雪の申し出に、頼りたいような、頼りたくないような。
 そんな風に揺れる眼(まなこ)を上向けた詠人に、雪はにやりと、笑ってやった。
 

 

 ※5 日天真正自顕流=今で云う処の、薩摩自顕(示現)流。二の太刀要らずの別名も持つ(一撃(主に突き)で、敵を倒す事を旨としている流派なので、「二の太刀要らず」。防御などと云う言葉は、この流派には(多分)、ない)。恐らくこの時代では未だ、日天真正自顕流と云う名称だと思うので、こちらで(凄くいい加減)。

 

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