もう間もなく、座敷に上がる為。
 袖を絡げて手を伸ばし、高く結い上げた髪に挿した、鼈甲(べっこう)の簪を直しながら、お芹はヒクっと、唇の端を吊り上げた。
「事情は良く判りましたけどね。随分と、調子の良い事ばっかり、仰いますねえ、旦那」
 一一深川仲町にある、芸者の置き屋。
 その茶の間にての、それは光景だった。
 勝手知ったる何とやら、と、大刀を抱えたまま寛ぐ雪と、居住まいを正し続ける詠人を見比べ、お芹はわざとらしい溜息を付く。
「そうか? ささやかな頼みだと思うんだがな、俺は」
「良く云いますよ。団子を買って来てくれって、そんな遣い一つ、まともにこなしちゃくれないってのに。そちらのお侍さんを預かれって頼みを、聞けってんですかい? 止むに止まれぬ訳があるってんなら、御自分の処にお匿いになればよござんしょ。ここの処ずーーーっと、仙台堀で、上手くもない釣りばっかりしてる癖に」
「ちょいと、今晩一晩、こいつを預かってくれって、そう云ってるだけだろっ。俺の釣りの腕前なんざ、今はどうだっていいんだよ。……っとに。芸者の癖に、ツンケンしやがって。六の野郎も可哀想にな、こんなに角のある女の、何処がいいってんだか」
「それこそ、余計なお世話ですよっっ」
 大仰な溜息を切っ掛けに、雪とお芹の言い合いが始まった。
 まあこれは、二人が顔を合わせれば始まる、恒例の行事のようなものだが、それに慣れている筈もない、詠人は、いたたまれなくなったようで。
「あの……。せ……雪(ゆき)? 私の事なら、別に……」
 はらはらと、浪人と芸者を見比べつつ、口を挟んだが。
「ああ、お侍さん。今晩、お預かりさせて頂くのが嫌だって云ってるんじゃないんですよ。この唐変木に嫌味の一つも云ってやらなけりゃ、昨日の団子の一件、忘れられそうにもないんでねえ」
 雪に見せていた表情とは、一遍した笑みを、お芹は詠人へと向けた。
「ならば、良いのだけれども……」
「ええ。大丈夫ですよ。一晩くらい、ここの女将さんも、何も云いやしませんから。どうぞごゆっくり。私はこのまま、お座敷行っちまいますけど。二階にお床、用意しときますから」
 恐縮しきりな詠人に、穏やかにお芹は告げ。
「で? 旦那はこの、英さんとやら放り出して、どうすんです?」
 又、きっと、雪を向き直った。
「まあ、ちょいと、な」
「ちょいと? 何です?」
「住む処を、探して来るんだよ。連中にばれてる今の長屋に居続ける訳にも行かないからな」
「ああ、そりゃそうですね。宛てがあるんですかい?」
「まあな」
「……ま、何処に越そうと旦那の勝手ですけど。行方だけは晦まさないで下さいましよっ。ツケ、未だ払って貰ってないんですからねっ」
 己と詠人と、正反対の顔を見せるお芹へと、鬱陶しげに、シッシと雪は手を振り。
「遅くならないように戻るから。先、休んでな」
 見上げて来た詠人へ、ふっと笑みを注いで、雪は置き屋を出て行った。
「あの……。お芹、さん?」
 五つ木瓜に唐花の家紋が染め抜かれた、黒い着流しの後ろ姿が、格子戸の向こうへと消えて行くまで見送り。
 詠人は、お芹を呼んだ。
「何です?」
「雪さん……いえ……雪之丞殿、は……どう云う……?」
「あの旦那は、甲斐性無しの唐変木ですよ。腕の方は、滅法立ちますけどね」
 折戸雪之丞なる人物は、如何なる男なのか、と。
 目で問うた彼に、お芹は軽く、肩を竦めた。
「そう……」
「気になりますかい? でもねえ、あたし達も良くは知らないんですよ。何年前でしたかね、ふらりと現れて、本所界隈に住み着いて。あっちこっちにツケ溜めちまうような、いい加減な旦那ですけど、悪いお人じゃないし、深川辺りでもめ事が起こると、腕っぷしに物言わせて何とかして下さるんで、まあ、ね。悪いようにはしないお人ですよ。一一小耳に挟んだ噂では、薩摩(現・鹿児島県)だか肥前(現・長崎県)だかの出自で、お家も生家も飛び出した、って事ですけどね。あの質じゃ、勤まらないでしょうよ、お城勤めなんて」
「かもね」
 雪の、人なりを、ぽんぽんと語ったお芹に、詠人は真面目な顔をして頷いた。
「さて、あたしはお座敷があるんで。これで失礼しますよ」
 詠人の同意を得られたのを切っ掛けに。
 羽織りに袖を通し、お芹は立ち上がった。
「じゃ、ごゆっくり」
 馴染みの客に向けるような色を垣間見せて、お芹は置き屋から去る。
 詠人も腰を上げ、二階へと続く階段へと向いながら。
「……生家を飛び出した、か……。でも、あの家紋……一一」
 先程見送った、雪の着物の家紋を思い出し、彼は僅か、複雑そうな顔をした。

 

 

 新しい住まいを見つけて来る、と、深川仲町の芸者置き屋を出て行った雪が、再び格子戸を潜ったのは、酉の刻から戌の刻へと、時が変わろうとしている頃だった。
 茶の間で渋茶を啜っていた女将に会釈を送り、腰から抜いた太刀を手に、彼は階段を上がる。
 からりと障子を引けば、赤々と、行灯の火が灯された十畳程の座敷には、二組の床が敷かれており、が、そこに、詠人の姿はなく。
 おや、と視線を巡らせば、床の間の柱に凭れるようにして、白河夜船となっている、彼の姿を雪は見つけ。
「きちんと眠りゃいいのに……」
 着物の袴も脱がず……則ち、とっとと寛ぎ休もうともせず、ずっとそうしていたのだろう詠人へと、雪は溜息を零した。
「雪さん。良かったら、どうそ」
 と、帰って来た己の後を追って、銚子とささやかなつまみ、そして猪口を二つ乗せた箱膳を抱えた女将に、背後から声を掛けられ。
「おう。悪いな」
 片手でそれを雪は受け取り、女将の手によって、障子が閉められるのを待つと。
 うたた寝を続ける詠人の傍にて胡座を掻いて、銚子を傾け出した。
 差し入れられたそれは、冷や酒だったけれど、上等、と雪は、するすると酒を嚥下していく。
 人の気配に気付く事なく、こんこんと眠り続ける隣の男の、伏せられた横顔を眺めながら、ふと。
 こいつは、こんな風に夜を過ごす事が多かったのかも知れないと、そんな想いに彼は駆られた。
 一一何故、己が付け狙われているのかの理由を、詠人は、弁えている節がある。
 中々語ろうとせぬから、問い詰めるような真似を、雪はしないけれども、言動から、彼が長らく、事情を抱えた生活をしているのは、察せられた。
 だから、気を抜けるだろうと連れて来た、この置き屋にての夜も、詠人にとっては繰り返される、事情のある夜の続きでしかないのかも知れなく。
 傍らに置いた刀にちらりと目を走らせ。
「付いててやるから。ちゃんと眠りな」
 雪はそっと、囁いてみた。
「ん……」
 が、返されたものは、寝言の延長のようなそれで。
「男を脱がせて床まで運ぶってのも、ぞっとしねえな……」
 詠人の、伏せられた瞼の先にある睫が、男とは思えぬ程長い、とそんな事に心奪われつつ、雪は、酒を満たした猪口を返し。
 固い柱に預けられた詠人の体を静かに引いて、その頭(こうべ)を、己が膝に乗せた。
 されるがまま、身を任せた彼の肩を、ぽん、と一つ、雪は叩く。
 否、撫でた。
 すれば、さらさらと、絹と畳の擦れ合う音が沸き起こり。
 詠人は、日溜まりの中で眠る猫のように、身を丸めた。
 膝元に縋り付いて来る彼の、無意識の仕種をくすりと笑い。
 今宵の酒の相手は、それは大きな『子猫』だ、と何故か暖まり始めた己が胸中に酔いつつ、土壁に凭れ、雪は又、冷や酒で満ちた猪口を、剣士にしては稀な程、すらりと長い指先で摘んだ。

 

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