もう間もなく、座敷に上がる為。
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新しい住まいを見つけて来る、と、深川仲町の芸者置き屋を出て行った雪が、再び格子戸を潜ったのは、酉の刻から戌の刻へと、時が変わろうとしている頃だった。 茶の間で渋茶を啜っていた女将に会釈を送り、腰から抜いた太刀を手に、彼は階段を上がる。 からりと障子を引けば、赤々と、行灯の火が灯された十畳程の座敷には、二組の床が敷かれており、が、そこに、詠人の姿はなく。 おや、と視線を巡らせば、床の間の柱に凭れるようにして、白河夜船となっている、彼の姿を雪は見つけ。 「きちんと眠りゃいいのに……」 着物の袴も脱がず……則ち、とっとと寛ぎ休もうともせず、ずっとそうしていたのだろう詠人へと、雪は溜息を零した。 「雪さん。良かったら、どうそ」 と、帰って来た己の後を追って、銚子とささやかなつまみ、そして猪口を二つ乗せた箱膳を抱えた女将に、背後から声を掛けられ。 「おう。悪いな」 片手でそれを雪は受け取り、女将の手によって、障子が閉められるのを待つと。 うたた寝を続ける詠人の傍にて胡座を掻いて、銚子を傾け出した。 差し入れられたそれは、冷や酒だったけれど、上等、と雪は、するすると酒を嚥下していく。 人の気配に気付く事なく、こんこんと眠り続ける隣の男の、伏せられた横顔を眺めながら、ふと。 こいつは、こんな風に夜を過ごす事が多かったのかも知れないと、そんな想いに彼は駆られた。 一一何故、己が付け狙われているのかの理由を、詠人は、弁えている節がある。 中々語ろうとせぬから、問い詰めるような真似を、雪はしないけれども、言動から、彼が長らく、事情を抱えた生活をしているのは、察せられた。 だから、気を抜けるだろうと連れて来た、この置き屋にての夜も、詠人にとっては繰り返される、事情のある夜の続きでしかないのかも知れなく。 傍らに置いた刀にちらりと目を走らせ。 「付いててやるから。ちゃんと眠りな」 雪はそっと、囁いてみた。 「ん……」 が、返されたものは、寝言の延長のようなそれで。 「男を脱がせて床まで運ぶってのも、ぞっとしねえな……」 詠人の、伏せられた瞼の先にある睫が、男とは思えぬ程長い、とそんな事に心奪われつつ、雪は、酒を満たした猪口を返し。 固い柱に預けられた詠人の体を静かに引いて、その頭(こうべ)を、己が膝に乗せた。 されるがまま、身を任せた彼の肩を、ぽん、と一つ、雪は叩く。 否、撫でた。 すれば、さらさらと、絹と畳の擦れ合う音が沸き起こり。 詠人は、日溜まりの中で眠る猫のように、身を丸めた。 膝元に縋り付いて来る彼の、無意識の仕種をくすりと笑い。 今宵の酒の相手は、それは大きな『子猫』だ、と何故か暖まり始めた己が胸中に酔いつつ、土壁に凭れ、雪は又、冷や酒で満ちた猪口を、剣士にしては稀な程、すらりと長い指先で摘んだ。
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