翌朝。
暑さの盛りが去った、夏の終わりに、雪と詠人が小石川の片隅にある道場に越して来てから、暫く時が流れた。
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昨日よりも更に、寒さが増したその日、日没の頃。 暇潰しだ、と云わんばかりの、怠慢な態度で、主人との立ち合い稽古を終えた雪が、疲れた顔をして、囲炉裏の設えられた座敷に戻って来た。 「お疲れ様」 やれやれ、そんな風な息を付きながら戻って来た彼へと言葉を掛けながら、既にその部屋に居た詠人が、火箸で炭を足した。 「もう、戻ってたのか?」 どさりと音を立てて座り、後ろ手で、腰の向こうに刀を置いて、囲炉裏の火にあたりながら、彼は詠人を見上げる。 二十日程前から、大人がぶらぶらしているのもみっともないから、と、詠人は、主人の顔馴染みで、近所に住む町医者、胡子(ごず)の孫達に、読み書きを教えに通っていたから。 常ならばこの時刻、詠人は未だ、胡子の家にいる筈なので、何かあったのか、と雪は些細な不安に駆られた。 「ああ。今にも、雪が降りそうな空だからね。少し早めに、切り上げて来た」 だが、見上げて来た雪の、伺うような眼差しを、詠人は軽く笑って。 天の模様が理由だと告げた。 「そう云やそうだな。今夜辺り、初雪にお目に掛れそうな寒さだ」 その部屋に面している、障子の開け放たれたままの縁側の向こう側を覗き込むようにして、雪は頷いた。 軒先の彼方に広がる空は、どんよりと鼠色をしていた。 「雪? 主人殿は? そろそろ、夕餉にしてしまいたいのだけれど……」 畳を摺りつつ立ち上がり、忍び込む寒さを断つ為、障子を閉めて、ふと、詠人は首を傾げた。 雪にも主人にも、何の予定もない、今日のような日、彼等は稽古をして過ごすのが常で、それが終わった後は、揃って夕餉の席に顔を出すのに、今日に限って、主人の姿が見当たらなかったから。 「主人なら、出掛けるとさ。ちょいと、用があるんだと」 「用? こんな日に?」 「約束なんだろ。どうせ、例の薮医者と、そこらで飲む約束でも、してんじゃねえのか?」 「薮……ああ、胡子先生? 薮だなんて、口が悪いね。ちゃんとした腕を持ったお医者様なのに。一一じゃあ、夕餉にしてしまおうか」 主人はどうしたのだ、と云う詠人の問いに、雪は、どうでもいい事のように、口悪く答え。 そんな雪に、全く、と詠人は苦笑いを返して、台所へと取って返し、鉄鍋を下げて戻って来た。 「主人殿がいないなら、御飯を炊かなければ良かったな。何を作っても、雪は酒としか食べないんだもの」 こんな事なら、晩酌の用意だけで済ませておけば良かったと、文句を告げながら彼は、鉄鍋を囲炉裏に掛けた。 「明日、粥にでもしてやりゃいいだろ。一一それよりも、と」 夕餉を、酒で済ませてしまう機会が、殊の外多い雪は、詠人の文句を片手で除けて、鍋の蓋を取った。 くつくつと、程よく煮え立つ鍋の中には、切られた、白い豆腐が浮かんでいる。 「湯豆腐か」 「寒かったからね」 「文句を云うつもりはねえんだが、どうしてこの家の湯豆腐には、豆腐以外が入ってないのかねえ……」 「そう云う事は、稼いで来てから云ったら? 私も君も、居候なのだからね」 鍋の中、沸き上がる泡に押されてぷかりと揺れる豆腐を、蓋の隅で突きながら、贅沢な事を云う雪の手を、ぴしゃりと詠人は叩いた。 「そりゃ、そうだが……」 「先に云っておくけど。賭場で稼いで来た金子なんて、金子の内には入らないからね。……まあ、有り難い、のは確かなんだが……」 「……相変わらず、お固い事で。金は金、なんだがなあ」 叩かれた手を引っ込め、詠人へと蓋を返しながら、雪は憮然とした顔になった。 「判ってるよ。お金はお金。君には、本当に良くして貰ってるって、私も思ってる。たったあれだけの縁しかない私にね、ここまでして貰って……礼の言い様もない。だから……余り、世話になり過ぎるのもね……良くはないから。この間云ったように、そろそろ……」 「戻るか? 渋谷村の方に」 「うん……。一一この話は、食べ終わってからにしようか。ね?」 |
項垂れた雪を、詠人はくすりと笑い。 が、少しばかり、暗いそれへと顔色を移し。 今はこの話は止めよう、と、彼は再び、台所へと消え。 箱膳に、数本の銚子を乗せて、雪の隣に腰下ろした。 一一小首を傾げる風にして、にこっと詠人が微笑めば、それを合図にして、雪が無言で猪口を取り上げた。 上向けられた盃に、人肌の酒を、詠人も黙って注ぐ。 ……この道場に、彼等が住まうようになって。 何時しか出来上がり、『当たり前』になった、風景の一つだった。 くつりくつりと、鍋が煮える音だけが、盃を呷る雪と、それを見守る詠人の、背景に流れる音。 彼等の夕餉は、無言の内に終わる事の方が多かったから。 その座敷を流れゆく音が、それだけでしかなかろうとも、彼等の居心地は、悪くはならない。 が、その日は。 余りにも、静寂が過ぎて。 「どうしたのかな……」 手にしていた銚子を箱膳へと戻し、詠人が立ち上がった。 障子へと近付き、跪いた彼は、そっとそこを引き開ける。 「あ……」 夜の色への移りを終え、闇色を湛えた空から。 細かな白が、降り注いでいた。 「初雪だ」 「何だ、冷えると思えば、やっぱりか。とっとと閉めて、戻って来い。風邪引くぞ」 縁側の先に広がる小さな庭に、早くも積もり始めた初雪を伺い、雪がふるりと身を竦める。 「風情があるねえ……。こんな夜は……」 「まあ、な……。酒が進む事は、確かだ」 「……君は、それしか考えてないんだから」 降り注ぐ初雪を、障子で隠してしまうのが、忍びなかったのか。 半分だけそこを開け放ったまま、詠人は雪の元へと戻った。 「物好きだな……」 「そうかい?」 杓をする為に、銚子へと手を伸ばしつつも、白い粉から眼差しを外そうとしない詠人を、雪は伺い見遣る。 一一何時までも、こんな夜が続くなどと云う幻を、追い求める気など、雪には更々ない……が。 何時までも、こうして居られれば、と、刹那願う思いまで、見逃す事など、彼には出来なかった。 …………何時しか。 美しい面差しを持った詠人と、こうして過ごす時が、当たり前になった、雪には。
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