翌朝。
 置き屋の女将とお芹に礼を云い、膝枕より目覚め、言葉を無くした詠人を連れ、雪が向かった先は、小石川(現・東京都文京区)にある道場だった。
 門弟の姿もない、有り体に云えば寂れた道場。
 が、門に掲げられた看板には、達筆で、『日天真正自顕流』と記されており。
 それを見て詠人は、雪の所縁の場所かも知れない、と、羞恥を覚えた朝の目覚めの時より、伏せ気味だった面を上げた。
 一一深川の置き屋を訪ねた時同様。
 勝手知ったる場所なのか、草履を脱ぎ捨て、道場へと上がった雪は、きょろりと辺りを見回し。
 木刀を振るっていた初老の男へと、声を掛けた。
「よっ」
「……よ、ではござらぬ。折戸殿」
 気安い口調で話し掛けられた初老の侍は、振っていた木刀を下ろし、若干顔を顰める。
「そっちこそ、止めろってんだよ。折戸殿、なんて堅っ苦しい呼び方。一一で、早速だが、主人(もんど)。あっちに居るのが夕べ話した奴」
「詠人殿、ですか」
「ああ」
 だが、主人の渋い表情も、雪には何処吹く風で。
 ふう、と諦めの息を付き、紹介された若者へと顔を巡らせた。
「お初にお目に掛かります」
 主人、と雪が呼んだ侍に見遣られ、詠人は、礼儀正しい言葉を返した。
「こちらこそ。お初にお目に掛かる。拙者、甲斐繪主人(かいえ・もんど)と申す者。折戸殿は、一応……一一」
「弟子、だな」
 一瞬だけ、詠人と雪を見比べ、同じような年頃、同じ武士であるのに、この礼儀の差は何だろう、と天井を仰いで嘆き。
 主人は名を名乗り、雪との関係を語り掛けたが。
 その言葉尻は、雪本人に奪われた。
「……弟子? あ、じゃあ、甲斐繪殿は、君の剣のお師匠様?」
 主人と雪の関係に、詠人は目を瞬かせ。 
「そう云う事になる。あくまでも、一応、だが」
「へえ……」
「尤も、腕の方は暫く前に、抜かされたでござるが。藍は青よりいでて、と申しますからな」
 当の、弟子と師匠は、何故か苦笑を浮かべた。
「……? 何、か……?」
 二人の表情に疑問を覚え、詠人は首を傾げる。
 しかし、すぐさま雪は、顔色を変え、話題を変え。
「と云う訳で、詠人。もう、粗方飲み込めたとは思うが。暫く、ここに厄介になる。万が一の事があっても、主人なら腕も立つし、道場はそこそこ広いから、手の打ちようもあるし、門弟もいやしねえから、他に迷惑も掛からねぇしな」
「一言、余計でござるよ。一一何の構いも出来ぬと思うでござるが、我が家と思って、寛いで下され」
 主人と共に彼は、詠人が訝しがった雰囲気を、さらりと流してしまった。
 

 

 

 暑さの盛りが去った、夏の終わりに、雪と詠人が小石川の片隅にある道場に越して来てから、暫く時が流れた。
 床の間を飾っていた薄は姿を消し、紅葉も終わり、そろそろ、梅擬の木には、赤い実がなろうとしている。
 江戸の町を抱く風は、随分と冷たさと厳しさを増して、間もなく、初雪が拝めそうだった。
 暦に換算して、約二月。
 あれから、それだけの月日が過ぎたけれど。
 目付きの鋭かった、得体の知れぬ侍も、忍びらしき男も、姿を見せた事は一度としてなく。
 彼等の替わりと思しき怪しき影も、一向に姿を見せなく。
 もうきっと、何事も起こらないだろうから、渋谷村に帰る、と、詠人は言い出し。
 用心棒を請け負った雪本人も、そろそろ、そんな頃合いと定めても良いのかも知れぬ、と思い始めていた。
 

 

 

 昨日よりも更に、寒さが増したその日、日没の頃。
 暇潰しだ、と云わんばかりの、怠慢な態度で、主人との立ち合い稽古を終えた雪が、疲れた顔をして、囲炉裏の設えられた座敷に戻って来た。
「お疲れ様」
 やれやれ、そんな風な息を付きながら戻って来た彼へと言葉を掛けながら、既にその部屋に居た詠人が、火箸で炭を足した。
「もう、戻ってたのか?」
 どさりと音を立てて座り、後ろ手で、腰の向こうに刀を置いて、囲炉裏の火にあたりながら、彼は詠人を見上げる。
 二十日程前から、大人がぶらぶらしているのもみっともないから、と、詠人は、主人の顔馴染みで、近所に住む町医者、胡子(ごず)の孫達に、読み書きを教えに通っていたから。
 常ならばこの時刻、詠人は未だ、胡子の家にいる筈なので、何かあったのか、と雪は些細な不安に駆られた。
「ああ。今にも、雪が降りそうな空だからね。少し早めに、切り上げて来た」
 だが、見上げて来た雪の、伺うような眼差しを、詠人は軽く笑って。
 天の模様が理由だと告げた。
「そう云やそうだな。今夜辺り、初雪にお目に掛れそうな寒さだ」
 その部屋に面している、障子の開け放たれたままの縁側の向こう側を覗き込むようにして、雪は頷いた。
 軒先の彼方に広がる空は、どんよりと鼠色をしていた。
「雪? 主人殿は? そろそろ、夕餉にしてしまいたいのだけれど……」
 畳を摺りつつ立ち上がり、忍び込む寒さを断つ為、障子を閉めて、ふと、詠人は首を傾げた。
 雪にも主人にも、何の予定もない、今日のような日、彼等は稽古をして過ごすのが常で、それが終わった後は、揃って夕餉の席に顔を出すのに、今日に限って、主人の姿が見当たらなかったから。
「主人なら、出掛けるとさ。ちょいと、用があるんだと」
「用? こんな日に?」
「約束なんだろ。どうせ、例の薮医者と、そこらで飲む約束でも、してんじゃねえのか?」
「薮……ああ、胡子先生? 薮だなんて、口が悪いね。ちゃんとした腕を持ったお医者様なのに。一一じゃあ、夕餉にしてしまおうか」
 主人はどうしたのだ、と云う詠人の問いに、雪は、どうでもいい事のように、口悪く答え。
 そんな雪に、全く、と詠人は苦笑いを返して、台所へと取って返し、鉄鍋を下げて戻って来た。
「主人殿がいないなら、御飯を炊かなければ良かったな。何を作っても、雪は酒としか食べないんだもの」
 こんな事なら、晩酌の用意だけで済ませておけば良かったと、文句を告げながら彼は、鉄鍋を囲炉裏に掛けた。
「明日、粥にでもしてやりゃいいだろ。一一それよりも、と」
 夕餉を、酒で済ませてしまう機会が、殊の外多い雪は、詠人の文句を片手で除けて、鍋の蓋を取った。
 くつくつと、程よく煮え立つ鍋の中には、切られた、白い豆腐が浮かんでいる。
「湯豆腐か」
「寒かったからね」
「文句を云うつもりはねえんだが、どうしてこの家の湯豆腐には、豆腐以外が入ってないのかねえ……」
「そう云う事は、稼いで来てから云ったら? 私も君も、居候なのだからね」
 鍋の中、沸き上がる泡に押されてぷかりと揺れる豆腐を、蓋の隅で突きながら、贅沢な事を云う雪の手を、ぴしゃりと詠人は叩いた。
「そりゃ、そうだが……」
「先に云っておくけど。賭場で稼いで来た金子なんて、金子の内には入らないからね。……まあ、有り難い、のは確かなんだが……」
「……相変わらず、お固い事で。金は金、なんだがなあ」
 叩かれた手を引っ込め、詠人へと蓋を返しながら、雪は憮然とした顔になった。
「判ってるよ。お金はお金。君には、本当に良くして貰ってるって、私も思ってる。たったあれだけの縁しかない私にね、ここまでして貰って……礼の言い様もない。だから……余り、世話になり過ぎるのもね……良くはないから。この間云ったように、そろそろ……」
「戻るか? 渋谷村の方に」
「うん……。一一この話は、食べ終わってからにしようか。ね?」
 項垂れた雪を、詠人はくすりと笑い。
 が、少しばかり、暗いそれへと顔色を移し。
 今はこの話は止めよう、と、彼は再び、台所へと消え。
 箱膳に、数本の銚子を乗せて、雪の隣に腰下ろした。
 一一小首を傾げる風にして、にこっと詠人が微笑めば、それを合図にして、雪が無言で猪口を取り上げた。
 上向けられた盃に、人肌の酒を、詠人も黙って注ぐ。
 ……この道場に、彼等が住まうようになって。
 何時しか出来上がり、『当たり前』になった、風景の一つだった。
 くつりくつりと、鍋が煮える音だけが、盃を呷る雪と、それを見守る詠人の、背景に流れる音。
 彼等の夕餉は、無言の内に終わる事の方が多かったから。
 その座敷を流れゆく音が、それだけでしかなかろうとも、彼等の居心地は、悪くはならない。
 が、その日は。
 余りにも、静寂が過ぎて。
「どうしたのかな……」
 手にしていた銚子を箱膳へと戻し、詠人が立ち上がった。
 障子へと近付き、跪いた彼は、そっとそこを引き開ける。
「あ……」
 夜の色への移りを終え、闇色を湛えた空から。
 細かな白が、降り注いでいた。
「初雪だ」
「何だ、冷えると思えば、やっぱりか。とっとと閉めて、戻って来い。風邪引くぞ」
 縁側の先に広がる小さな庭に、早くも積もり始めた初雪を伺い、雪がふるりと身を竦める。
「風情があるねえ……。こんな夜は……」
「まあ、な……。酒が進む事は、確かだ」
「……君は、それしか考えてないんだから」
 降り注ぐ初雪を、障子で隠してしまうのが、忍びなかったのか。
 半分だけそこを開け放ったまま、詠人は雪の元へと戻った。
「物好きだな……」
「そうかい?」
 杓をする為に、銚子へと手を伸ばしつつも、白い粉から眼差しを外そうとしない詠人を、雪は伺い見遣る。
 一一何時までも、こんな夜が続くなどと云う幻を、追い求める気など、雪には更々ない……が。
 何時までも、こうして居られれば、と、刹那願う思いまで、見逃す事など、彼には出来なかった。
 …………何時しか。
 美しい面差しを持った詠人と、こうして過ごす時が、当たり前になった、雪には。

 

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