燗付けた銚子も、全て空になり。
囲炉裏に掛かっていた鍋も下げられ。
火の傍で、ごろり横になって、雪は手枕で、薄く開けられた障子の隙間より、止む気配のない初雪を眺めていた。
片付けが終わったのか、何時しか台所より戻って来た詠人が、やはり、彼の枕元に正座し。
共に、初雪を眺め始めた。
「雨戸、閉めなきゃね……。縁側に、吹き込んで来る」
何時までも止みそうにない白雪を、もう閉ざしてしまわねば、と云いながらも。
詠人は一向に、立ち上がろうとはしない。
「もう少しくらい、眺めてたって、構わないだろうさ…」
その様に、そこまで眺めていたいなら、と、雪は云った。
「そうだね……」
雪の言葉に、詠人が微笑んだ。
「もう少しだけ、な」
降って来た笑みのこそばゆさから雪は目を逸らし、照れを誤魔化すように、傍らの煙草盆を引き寄せた。
長めの煙管を取り上げ、葉を詰め、ポッ……と火を点ければ、吹き込む風に乗って、紫煙が縁側へと流れた。
一一唯々。
ありとあらゆる音を吸う、初雪の夜の静寂が、座敷を満たす。
「なあ……詠人」
…………染み渡った、静けさの後。
カン、と、雁首を煙草盆へと打ち付け、良い音を放たせてから、雪が詠人を呼んだ。
「何?」
「どうしても、帰るのか? 渋谷村に」
「……どうしても、って訳じゃないけど……。何事もないのなら、あそこに戻るのが一番かと、そう思ってね……」
呼ばれるがまま、庭先から視線を落とせば、そのような事を云われ。
詠人は目許に憂いを乗せた。
「何があっても、あそこに戻らなきゃならない事情がないんなら。その……な」
「……何だい? 歯切れが悪いね」
「その……。このまま、一緒に…………一一。いや、何でもない。忘れてくれ」
葉を詰めてもいない煙管の吸い口を、噛むように銜えてそっぽを向いて。
雪は、舞い散る白い粉だけを見つめた。
「…………忘れても、いいんだ……?」
そんな雪の頬へと、詠人は、両手を伸ばし。
手枕から、雪の頭(こうべ)を奪うと。
少しだけ崩した己が膝を、雪の枕とした。
「あれから二月。何事もなかったのに、どうして、私が何時までも、君の申し出に甘えていたと思う? ……私もね、去り難かったんだよ、君の傍から…………。一一おかしい、かな、こんな想い。でも……ずっと、そう思っていた……」
チリ……と寄り、崩した膝に己が頭を乗せられて、慌てふためき、煙管を銜えたままの、少々滑稽なナリで、雪は詠人を見上げ。
詠人は、笑みを湛えた。
「人情芝居でもあるまいし、ね。君の性根に絆された訳じゃないと思うけれど……。傍にいたいと思うんだ。……どうしてだろうね。同じ男の君に、こんな事を想うなんて……気味悪がられると思って。今まで、言い出せなかった」
軽く、笑んで。
ぽつりと詠人は告げる。
雪は。
その面を、恐い程の真顔で眺めた。
「傍にいたい、と。そう思うのか?」
「……ああ」
「どう云う、意味で?」
「…………さあ、そこまでは…………。初めて出来た、同じ年頃の、友だからかも知れないし……」
「一一俺は、な。詠人。俺は、多分…………一一一一」
何故、共にいたいと願うのか、そこまでの判断は付かぬ、と詠人は云う。
膝上の真顔から、困り果てた風に顔を逸らした詠人へ、雪は投げ出していた手を伸ばした。
……パタリ…と、畳の上に、音を立てて煙管が転がり、空けられ、伸ばされた雪の指先が、詠人の項辺りから結い髪を掻き上る。
忍んだ長い指は、幾度か柔らかく、詠人の豊かな髪を弄び。
くい、と引かれた。
雪の力に抗わず、指先に促されるまま、詠人が面を、雪へと近付ければ。
ふっと持ち上がった雪の体が、詠人へと迫り。
唇と唇が触れ合う感触を、詠人は覚え。
一瞬だけ見開かれた瞳を、彼は静かに閉じた。
「…………それでも。傍にいたい、と思うか……?」
持ち上げた頭を、詠人の膝へと戻し、初雪だけを眺めながら、雪が尋ねた。
「君が……望んでくれる、なら……」
一一開かれた障子の隙間より、雪は、外だけを見ていたから。
そう答えた相手の頬に、夕暮れの空色に似た朱を、さっと刷いたような彼の面を、見る事が、雪には叶わなかったが。
聞き取り辛い、微かな声で返された、その応(いら)えだけで充分だ、と。
己が黒い着流しの胸元に添えられた、詠人の白い手を、雪はそっと握り返した。
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