***

 

 圭一郎が依頼した者を携えて、栗田と黒沢がホテルへとやって来たのは翌日、夕食が済んだ午後八時過ぎの事だった。
 ノックされたドアを開け、茶封筒をびらびらさせながら立っている刑事を圭一郎は室内へと招き入れた。
「…すみません、お手数をお懸けして」
「いやあ、いいんだよ。所で、何に使うの?大野りんの姉が死んだ時の資料なんか」
 ホテルの、お情け程度のソファを二人に勧めると、彼は栗田から封筒を手渡される。
「ちょっと、参考までに知っておきたいんです」
 口の中でごにょごにょと言い訳を言って、圭一郎は資料を読み出した。

 

 三沢香菜。
 死亡時の年齢は三十。
 妹であるりんとその婚約者大野秀明との三人で東北地方を旅行中、溺死。
 観光中の浄土が浜から突然姿を消し、翌日代わり果てた姿で海岸に打ち上げられた。
 警察の検死の結果、崖から転落したらしいと云う事が判明。
 旅行に同行していたのは、妹の三沢りん及び、彼女の婚約者である大野秀明の二名。
 同日、りんは発熱の為ホテルで寝込んでいた。ので、香菜は大野と二人で浄土が浜へ散歩に出掛けた。
 その途中、大野が土産物屋で買い物をしている間に、ふっと姿を消したまま、夜になっても帰らなかった。
 この事に関しては、土産物屋の主人も証言している。
 店にやって来た時は確かに二人連れだったが、男の方が会計を済ませている間に、女の方が消えた、と。
 当時の大野の証言は、暗くなるまで散々香菜を探したが、結局見つけることが出来ずにホテルに戻った、と云うもので、別段疑う余地はない。
 ホテルに戻り、りんと二人で朝まで香菜の帰りを待ってみたが、何の連絡もないので、警察に届けた所、その日の未明、海岸で漁師が発見した水死体と対面する事となり……二人は、その死体が、香菜で有ることを確認した。
 結局、事件は被害者が一人で浄土ケ浜付近の崖を散策中、誤って足を滑らせたものと云う結論に達して幕を閉じた。

 

 ……と云う様な事が書かれてあった報告書を、圭一郎は読み終えた。
 ふと、視線を書類から外すと、どうしたものやら判らなく、戸惑った風な二人の刑事がこちらをちらちら覗いていた。
「あ…ああ…。すみません。お茶でも入れますね」
 慌てて彼は立ち上がり、部屋の隅まで行くと備付けの簡易ポットの電源を入れた。
 じりじりと音を立ててポットは活動を開始し、その回りには素早く湯飲み茶碗が三つ並べられる。
 アルミの急須にパックの緑茶が放り込まれても、室内に響く音は湯が湧きつつある音だけだった。
 暫く待って、均等に茶を注ぎ入れ、湯飲みをソファまで運ぶ。
 自分用の土産に駅のキヨスクで買った、名物のみすず飴をお茶受けにしようと、再び彼が立ち上がった時、栗田が、圭一郎を呼び止めた。
「ねえ、圭一郎君。聞いてもいいかな?」
 声を掛けられて、圭一郎は再び腰を落ち着けた。
 そう、せざるを得なかった。
「はい。…何でしょう」
 声には、少しばかり緊張が走っている。
 その彼の眼前に、栗田は報告書が入った茶封筒を放り出した。
 自然、三人の視線が集中する。
「どうして、こんな物読みたがったの。教えてくれないかな。捜査の、参考になると思うんだ。それに…ね」
「…それに?」
「君…まだ、僕達に隠している事があるんじゃないかな」
「別に隠してることなんて……」
「本当にそうかな」
 何かを含むような栗田の台詞を、圭一郎はさらりとかわして見たが、刑事達には通用しなかった。
「じゃあ、お聞きしますけど、どうして、そう思うんです?」
「一一圭一郎君、この間俺達に署に連れていかれた時、こう言ったろ?大野りんから手紙を送られた経験から、彼女が誰かを殺すと思い込んで軽井沢に帰ってきた。でも、殺されたのは彼女の方だった。恐らく君がそう思った様に、俺達も今回の彼女の死と君の話は関係ないと思ったんだ。最初はね。でも、それ以外の可能性を君が見出したのなら別だ。……でなけりゃ、こんな書類を見せてくれなんて言い出さないだろう?だから」
 テーブルの上の書類から目を離し、二人を見据えた圭一郎から、言葉はなかった。
「どうなのかな」
 駄目押しの様に、黒沢が言った。
 圭一郎は、大きく息を吐くと、毎晩そうしている様に、窓際に寄り、カーテンを少しだけ開けて、千曲川を見下ろした。
 二人には背を向ける恰好になった。
「犯人の、目星は付いたんですか?」
 何か語るかと思ったが、彼は質問には答えず、二人にそう尋ねた。
「あ…まあ、ね」
 不意を突かれた黒沢が素直に白状する。
「じゃあ、いいじゃないですか、僕の話なんて」
「まあね…いいって言えばいいんだけど。まず、十中八九、間違いはないとは思うよ。でもね、万が一って事があるだろう?」
「…きっと、間違ってなんかいませんよ。多分、栗田さん達が考えた通りの人物が、犯人なんですよ。…それじゃあ、いけないんですか?」
 刑事に背を向けたまま、まるで喧嘩でも売る様に圭一郎は喋り続けた。
「単純な事件じゃないんですか?大野りんと云う一人の女性が殺されて、彼女はどうやら不倫をしていたらしい。小諸でも噂になってる位です。だとしたら、不倫をされた方か、不倫をした方か…その何方かの男性が犯人でしょう?…まあ、世の中には例外も有りますけれど、彼女は妊娠していたって噂ですし、同性にうつつを抜かしてたって事はないでしょうから、やっぱり犯人は男でしょうね。…だったらその何方かを探し出せば事件は解決するんじゃないんですか?他に、彼女が殺される心当たりがないのなら。…ましてや、もう犯人の目星が付いていて、殆ど間違いがないのでしょう?これ以上僕に何かを尋ねると云うのは、無駄骨と思いますけど」
「………本当に…そう思うかい?」
 一一彼等と自身の間に見えない壁を作ろうとしているかの様な圭一郎の背に向けて、穏やかに栗田は語り掛けた。
「どう云う意味ですか」
 その声音に何かを感じたのか、やっと圭一郎は振り向く。
「…俺は、さ。最初、物凄く舞い上がってたんだ。今回の事件が起こった時。制服着て、派出所に立ってる『お巡りさん』から昇進して、刑事になって、この町に配属されてから初めての殺人事件だったから。何が何だか良く判らないまま捜査を始めて…それから次に彼女に同情した。君も知ってると思うけど、この辺りの人達って、余所者を嫌うだろう?…東京からお嫁に来て、『来たりっぽ』って呼ばれて五年、やっと誰も何も言わなくなり掛けてたのに、死んじまったんだ。やるせないだろうなって。…それから怒りを感じた。彼女を殺した犯人の見当が付き出してから。彼女は妊娠してたのに…その罪もない命さえ犯人は殺したんだ。それって許されない事じゃないかって…。それからも、色々考えたけどね、結局の所、俺は警官だから犯人を捕まえたい捕まえなくちゃいけない。…でもね、それだけじゃいけないんじゃないかって思ったんだ。全てを…全てを明らかにしなくちゃいけない。真実を、知らなければいけない。それが、警察官としての使命の様な気がしたんだ。…唯、犯人を捕まえればいいってもんじゃないと思ったんだ。…だから、その為にも君の隠している事を知りたい。今回の事件の真実を全て知る為に必要なら、俺達はその全てを知らなければならないんだと、そう、思う」
 振り返った圭一郎に、身じろぎもさせない程、何か、一つの迫力の様な物を言葉に乗せて、栗田は言った。
「物凄く、虫のいい話かも知れませんが…。僕のお願いをもう一つだけ、聞いて戴けませんか」
 その気迫が伝わったのかどうなのか、それまで握り締めていたカーテンを、手から離して圭一郎が申し出た。
「何だい、お願いって」
「無理な事を言っているのは判っています。…僕に…捜し物をさせて戴けませんか。大野りんさんの家で。……そこで…もし、僕の探している物が見つかれば…僕が、あなた達に隠している事をお話しすることが、出来ると思うんです…」
「今じゃ、いけないのかい?」

 突拍子もない事を申し出た圭一郎に、少々戸惑いを感じながらも、栗田は何とか会話を続けた。
 自分の語った事を空かされた様な気分だったが、まあ、彼が何かを喋ってくれるのならそれで良しにしようと思った。
「……話したところで…事件の参考になる事とは思えません。でも、もし、僕の考えている事が正しければ、真実を知りたいと云う栗田さんの気持ちには、答える事が出来るかも知れません。でも、それを口にするのは、今じゃ駄目なんです。今じゃ、未だ」
 頬の辺りに、夜の闇とは少し違う暗い色を浮かべて、そう語る圭一郎は、二人の刑事の目には少し異様に写った。
 彼の言葉を頼りに、考えを素早く巡らせてみたが大して何も浮かばず、目を見合わせた二人は取り合えず、
「何故」
 と聴くのがやっとだった。
「……僕の考えていることは、突拍子もない事です。それにこの考えが本当だったとしても、事件の犯人が変わる訳じゃ有りません。大野りんを殺した真犯人を暴き出すとかそう言った類の話じゃないんです。…それに…僕にとっても少々喋り難い話でもありますし、ね。でも、確かに僕は刑事さん達に隠し事はしています。それは、正直にお話します。けれど…それより何より…僕には、判らないんです」
「判らないって…それ、どういう事?」
 二人には、さっぱり意味の不明な事をつらつらと圭一郎は並べ立て、早く帰れと言わんばかりにテーブルに歩み寄ると、そこに置かれたままの茶封筒を取り上げて、栗田に押しつけた。
 勢い、栗田は立ち上がり、それを受け取る恰好になる。
 一一何となく、帰らない訳にはいかなくなった。
 つられたように黒沢も立ち上がり、なし崩しに、二人はドアへと向かう。
 その背に、圭一郎の声が飛んだ。
「…僕は、警察じゃありません。もちろん法律でもありません。僕は人間なんです。だから、人を裁く事なんて出来ない。何が正しいか、誰が正しいか…そんな事判りません。だから…僕は未だ、お二人に何も話すことが出来ません。もう少し、時間を下さい」
 一一それは、例えて言うならば、呪文の様な言葉で…刑事の心を何故か捕らえた。
 栗田は振り返ってはみたが、言うべき言葉は見つからず、再び踵を返すと、ドアを開けて部屋を後にした。
 バタン、と音を立てて閉まったドアの向こうでは未だ、的場圭一郎が自分達の背中を見つめている様な気がした。
 彼は、決してそんなつもりで言ったのではないと、判ってはいたが、彼が最後に残した言葉は、自分達がしている事は間違っていると言っている様な気がして仕方がなかった。
 ……でも、どうする事も出来ないじゃないか。
 俺達が、間違っている訳じゃないさ。
 そう、自分に言い聞かせて、二人は丁度やって来たエレベーターに乗り込んで、そしてドアを閉めた。

 

 

 二人の刑事が去った後、テーブルの上の茶碗をざっと片づけて、圭一郎はベッドに横になった。
 サイドテーブルの上に転がしてあった文庫本を手に取り、栞を挟んである所から、再び本を読み出す。
 表紙には、『オセロー』と書かれてある。
 大野りんから送られた物だ。
 軽井沢へ向かう列車の中で読み始めてから今日まで、暇があればその戯曲に目を通す様に心掛けていた。
 話は、もう大分佳境に差し掛かっていた。
 この話はシェイクスピアの四大悲劇の一つだ。
 圭一郎自身、過去に読んだ事だってある。
 ムーア人で勇敢な将軍であるオセローと云う男が、サイプラス島と云う島の行政を任されて、その島に赴く。
 最愛の妻であるデズデモーナと共に。
 二人は結婚したばかりで、幸せの絶頂にあるかの様に見える。
 唯一、気掛かりと言えば、デズデモーナの父が二人の結婚に反対した事位だ。
 だが、オセローの部下に旗手イアーゴーと云う腹黒い男がいて、彼は自分がオセローの副官になれなかった事を不満に思い、副官キャシオーを失脚させる。
 イアーゴーの奸計はそれに止まらず、自身がオセローやデズデモーナに信頼されている立場を利用し、デズデモーナがキャシオーと不義を働いたと、言葉巧みにオセローに信じ込ませる。
 嫉妬の余りオセローは、自らの手でデズデモーナを絞め殺してしまう。
 だが、彼が妻を殺したそのすぐ後に、全てがイアーゴーの奸計であった事を知り、自殺してしまう。
 そんな話だ。
 圭一郎が読み出した場面は、オセローがデズデモーナを殺す為に彼女の寝室へやって来た件だった。
 ほどなくして、彼は物語を読み終わり、本を閉じた。
 一一私は、シェイクスピアになってみるわ…。
 りんの手紙の一節が、脳裏に蘇る。
 本を放り投げ、部屋の明かりを消した。
 ……彼女は…『オセロー』の中の、デズデモーナになろうとしたのだろうか。
 姉を殺した憎むべき人物に復讐する事を諦めて。
 でも。
 『オセロー』はイアーゴーがいなければ『オセロー』じゃない。
 なら…やっぱり…。
 一一目を閉じて、圭一郎は何時までもそんな事を考え続けていた。

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