その夜は、姫も私も妙な気を張っていて、挨拶に毛が生えた程度のやり取りしか交わさず、私は、彼女を休ませてから不寝で火の番をしていた。

二日目は、二人共、朝の内は無口だった。

碌に話さぬまま、私は、マイラへの道すがらに見付けた小さな泉で姫に水浴びを勧め、かなり埃塗れだが裸よりはましだと、彼女に私のマントをきっちり羽織らせてから、彼女の服を洗濯し、乾かして……、としていた。

……が、かなり苦労して、もう一度袖を通せる程度には汚れを落とした、綻びや擦り切れの激しい服を木の枝に干した辺りで、私は、体の疲れと気の疲れ、それに寝不足に負け、うっかり、木に凭れて眠ってしまった。

眠りに落ちていたのは僅かの間で、直ぐに目覚めはしたけれど、昼日中とは言え、何時魔物が襲い来るかも判らないこんな所で、王女を一人放り出して……、と私は慌てて飛び起きた。

その刹那、彼女は眠ってしまった私に膝を貸そうとしてくれていて、そうとは知らず飛び起きた私と彼女は、極々近くで見詰め合う格好になってしまって、又も長々詫び合い、終いに、揃って笑い出した。

何をやっているのかと。

…………それを切っ掛けに、それぞれ、妙な気は張ったまま、私達は会話らしい会話を始め、その更に二日後に辿り着いたマイラで、暫しの時を共に過ごし始めた。

あの村を目指し留まったのは、温泉地故に療養に向きだったのと、マイラの者達には申し訳ない言い方だが、人の少ない辺境だったからだ。

数日でも滞在出来れば、多少は姫の体も癒せると思えたし、彼女の──即ち『ローラ姫』の顔を知る者もいなかったから、騒ぎが起きる心配も無かった。

但、私自身はあの村の宿の者達には顔を覚えられ始めていたので、念の為、宿の主と女将には、「彼女は息抜きを兼ねてマイラまで療養に来た、生来体が弱い貴族の御令嬢で、私は故あってその護衛を頼まれているから、彼女も私も、暫くは放っておいてくれ」と、でっち上げを告げておいた。

お陰で、身分違いの恋に落ちた若い二人、とか何とか、彼等には変な誤解をされたが、必要以上に首を突っ込ませない、との目的は達成出来て、誰にも邪魔されずに姫は身を癒し、私は姫の世話を焼いて、三、四日程が経った頃だったか。

真夜中に、姫が、眠れないから散歩に連れて行ってくれないか、と言い出した。

たまたま、その夜は私も寝付きが悪く、未だ起きていたので、ご所望ならば、と宿を抜け出し、村の散策に出た。

……あの石牢から姫を救い出した日より数えれば、早七日か八日、その間に、大分、姫の顔色は良くなり、頬も僅かにふっくらし始めて、既に自らの足で歩けるようになっていた。

彼女の、毎日牢の中で歩く稽古をしていた、とのそれは、伊達ではなかったらしい。

だから私は、騎士や剣士の範疇でのみ姫に手を貸し、肩も並べていたのだけれども。

徐々に、姫に先立たなければ進めなくなった。

…………彼女の肖像画は、お前達の時代にも伝わっているだろうから、判るだろう。

姫は、とても美しい人だった。

面立ちも、翠の瞳も、赤混じりの、金にも見える亜麻色の長い髪も全て。

大国ラダトームの跡を継ぐ王女殿下にも拘らず、気取っていなかった。

例えは何だが、何処にでもいる極普通の少女のような処もあって、それでいて、聖職者に似た雰囲気を纏っていた。

教会での躾は受けていても、一般の礼儀以上はあやふやだった私に腹も立てず、話を熱心に聞いてくれた。

……そんなこんなな所為で。

月光を頼りに人気の絶えた村の中を行く彼女が、それまで以上に美しかった所為で。

その……、私は、強く彼女を意識してしまい、その面を見遣れなくなって…………。

姫に背だけを晒し、半歩先を歩いて、口数も減らしていた。

気が付いた時には、そのまま村外れに着いてしまっていて、慌てて引き返そうとしたのに、姫は立ち止まったまま、手を引いても歩いてくれなかった。

歩みを止めて、俯いて、

「やはりアレフ様も、本当は、わたくしのような者とは手を繋ぐのも目を合わせるのも、お嫌ですか」

と、問うてきた。

何故、姫がそんなことを言い出したのか私には判らず、気に障ることをしてしまっていたなら謝るし、姫の手を取るのが、目を合わせるのが、嫌な筈は無い、と宥めたけれども、姫は今度は泣き出してしまって、慰めながら宿の部屋に戻り、理由を訊いた。

……突然の問いの訳も、泣き出した訳も、直ぐに知れた。

彼女は、マイラの村の者達がしていた自分の噂を聞いてしまっていた。

噂は、王家に生まれた女子故の嗜みを持つ彼女を酷く傷付け、と同時に、そう思われても仕方無い、寧ろ、それが当然だ、とも彼女に思わせた。

そして、散策中に私が取った態度から、私も、村の者達がしていた『そう思われても仕方無い噂』を信じているのだろう、表向きは竜王討伐に旅立った勇者として尽くしてくれるけれど、本音では、悪魔の化身と言われる竜王に純潔を奪われた女など、魔族同然の穢れたモノと扱っているのだろう。……と、姫は。

…………理由を打ち明けてからも、姫は、宥めても宥めても泣き止まなかった。

だから、終いに私は、正直に語った。

確かに噂を信じてしまっていた、と。

けれども、姫を魔族同然の穢れたモノなどとは思ってもいないし、そう思っていたならば、わざわざドラゴンを倒してまで助けにはいかない、とも。

すれば、姫は何とか涙を堪え、真っ直ぐ私へ向き直って、今から言うことを信じて欲しい、と告げつつ語り始めた。

ラダトーム王城から連れ去られてより、約二月程は竜王の城に、以降は隧道の石牢に、自分は繋がれていたけれども、その間、竜王も魔物達も、人々が噂しているような意味合いで己に触れたことは一度も無かった。確かに『求められたこと』はあったが、それは、その手合いとは全く関わりないことだった、と。

姫自身、囚われたばかりの頃は、何れ自分は竜王の妻とされてしまう、と思っていたらしい。

だが、そうはならなかった。

竜王は、ローラ姫を我が物とはしなかった。

到底信じては貰えぬだろうが、私は今でも純潔を保っている、と姫は切々と訴えてきた。

…………これも又、絶対に、何が遭っても、彼女だけには知られてはならないことだが、その訴えを聞き終えた直後、私は咄嗟に、何処まで本当なのだろうか、と勘繰った。

しかし、どう斜めに見ても、姫が嘘を吐いている様子は無く、彼女の流す涙も、大抵の場合は信じぬ方が正しい『女の涙』とは違っていて、何より、彼女を信じたい、との思いもあり、私は打ち明けを信じた。

尤も、願望のみで信じた訳では無いけれどもね。

私のような育ちの者は、他人の顔色や腹の底を読むのに嫌でも長けるもので、少年時代は何とか消したくて仕方無かった、が、ローレシアを建国する際には随分と役に立った、私自身も知らぬ間に身に沁み付いてしまった癖に基づく確信があったからだ。

……本当に、人生とは、何処で何があるか判らないものだな。

その後、姫は泣き疲れて眠り、翌日も、その又翌日も、私達は何事も無かったかのように変わりなくマイラで過ごし、あの夜の三日後、ラダトームに戻った。

クソ親父──では無かった、ラルス十六世も、その時ばかりは国王陛下から人の親に戻って、姫の無事を泣いて喜びもしたし、私も真っ当に扱い始めた。

……現金、とも言うが。

──旅に戻りたかったが、王にも姫にも引き止められたので、私も、それより数日は王城に滞在する運びになり、その間、姫は、マイラでもそうだったように、毎日毎日、旅の話をしてくれと求めてきた。

彼女と語らうのは楽しかったし、こちらを慕っている風な様子を滲ませる美しい姫君に様々をねだられれば多少なりとも絆されるものだし、彼女に惹かれ始めていたのもあって、求められるまま姫に付き合った処までは良かったが。

その数日の間に、私はうっかり、口を滑らせてしまった。

何をかと言えば、ロトの洞窟での出来事を、だ。