非力な彼女にとは言え、突然、真横から弾かんばかりに強く突かれ、深く積った雪の上に倒れ込んでしまったアレンは、一体何が……、と首巡らせローザを振り仰いだ。
「ローザ?」
僅かのみ彷徨ったものの、彼の瞳の紺碧は、直ぐに彼女を見付けた。
氷の魔物──ブリザード、との名を持つそれと、自身が突き飛ばした彼との間に身を投げ出した、彼女の背中を。
まるで、立ちはだかる風に魔物と向き合い、雷の杖をギュッと両手で握り締めたローザは、僅か肩を強張らせて身構え、
『────ザラキ』
アーサーのマホトーンを弾き返したブリザードは、死の呪文を唱え切った。
「ローザ!!」
青白く輝く氷の魔物が、何を齎さんとしているのかなど判り切っていただろうに、彼女は逃れる素振り一つ見せず、放たれた死の呪文をその身で受け止め、突き飛ばされた体を立たせるよりも早く目の前で起こった出来事に、為す術も無かったアレンは目を見開く。
「ローザ……! ローザっっ!!」
…………魔物が、再び死の呪文を唱えようとしているのを察したのだろう。
それは、アレンを的にしているとも気付いたのだろう。
彼を庇ったローザは、雪に足を取られ縺れながら立ち上がったアレンと入れ替わるように膝を折り、頽れた華奢な体を彼は抱き留める。
「ローザ…………っ」
腕にした彼女は、もう、両の瞼を閉ざしていた。
くたりと弛緩してしまった全身は、氷像かと思えた程に凍えていた。
……但。
本当に微かにだけ、彼女は息をしていた。
今にも引き取ってしまいそうな、か細い息を。
「アレン! アレン、しっかりして下さい、アレンっっ!! 惚けてどうするんです、ローザを助けないとっっ!!!」
──ローザが死の呪文を浴びた。
しかも、己を庇って。
そして、今にも息絶えようとしている。
…………そうと悟り、彼女を抱き留めたまま動けなくなってしまった、どうしたらいいのかも判らなくなってしまった、呆然と目を見開くしか出来ないアレンを、アーサーが叱り飛ばした。
「────ベギラマ!」
腑抜け掛けた彼を叱咤しつつも、最早、魔力を温存している場合ではないと、アーサーは立て続けに術を放ち、
「ローザ……っっ。……あああああっ!!」
咄嗟に、乱暴に脱ぎ去ったマントで包んだ彼女を雪上に横たえたアレンは、咆哮にも似た声を上げながら、ぴょこりぴょこりと跳ね続ける二匹のブリザードを斬り付けた。
何度も。何度も。
ベギラマに撃たれ、稲妻を纏った剣に斬り裂かれ、ブリザード達は、粉々に砕かれた氷の粒へと姿を変える。
「……ローザ。……あ…………、ローザ…………っっ」
その様も最後まで見届けず、振り抜いた稲妻の剣を雪原に突き立てたアレンは、再び、ローザを抱いた。
その両腕に囲うように。とても強く。そして深く。
そうする以外、彼には出来なかったし、他には何も、思い至れなかった。
「アレンっ!!」
しかし、唯々ローザを抱き締めるしか出来ない彼の頬を、アーサーは叩いた。
「アーサー……?」
「今なら、未だ間に合います。──アレン、もう少しだけでいいですから、ローザを抱く手を緩めて下さい」
パン! との音が辺りに高く響いた程に強く頬を張られ、緩々と見上げてきたアレンへ諭すように彼は言い、大丈夫です、と安堵させる風に笑むと、瞼を閉ざし、詠唱を始める。
「………………────。……命を、御霊を司る、全ての精霊達よ。我が願いに応えよ。────ザオリク」
アレンは初めて耳にした、長くて複雑で、かなりの魔力も要するらしい詠唱をアーサーは唱え切り、ローザの額に翳された彼の右手が、ポッと輝いた。
「ザオリク……? …………死者を生き返らせると言われている、あの呪文……? でも、幾ら何でも……」
「いいえ。そんな風に噂する人達も少なくありませんけど、ザオリクは、蘇生呪文ではなく、死に瀕した者の魂を繋ぎ止める為のものなんです」
「魂を繋ぎ止める……? 肉体に?」
「はい。判り易く例えるなら、究極の治癒呪文、みたいな感じですね」
紡がれたそれは、ザオリクと言う、巷の噂では蘇生呪文と言われている術で、如何に魔術と言えど、死者を生き返らせるなんてこと、出来る訳が……、と顔を曇らせたアレンへ、アーサーは、ザオリクは蘇生呪文とは違うことを教えた。
「……本当に…………? なら、ローザは助かるのか……?」
「ええ。微かにでしたけど、ローザの息はありましたから。……アレン。大丈夫ですよ。間に合ったんです。だからもう、そんな顔しなくてもいいんです。……あ、さっきは叩いてしまって御免なさい。あれしか、アレンを落ち着かせる方法が思い付けなくて……」
「…………いや。僕こそ、すまなかった。取り乱してしまって……。……御免」
だから、死に瀕していたローザよりも遥かに蒼褪めていたアレンの頬には、ほんの少しだけ血の気が戻り、叩いたことを詫びてきた彼に小さく首を横に振って詫び返し、
「あ、ら……? 私…………?」
少年達が詫び合っている間に気を取り戻したらしいローザが、ゆっくりと瞼を開いた。
「気が付きましたか? 大丈夫ですか?」
「ローザ! 良かった…………!!」
幾度か緩慢な瞬きを繰り返してから、顔を覗き込んできた少年達を見比べ、己が身に何が起こったのか理解出来ていない風にそっと小首を傾げた彼女へ、アーサーは気遣う風に言い、アレンは、再び抱き締める。
「……アレン。あの──」
「──ローザ、ローザ、ローザ……。良かった……。君が助かって良かった…………」
繰り返し繰り返し、確かめるように名を呼んで、強く抱き締めた彼女の頬を己の胸に押し付けて、良かった……、と呟いた彼の声は、微かに震えていた。
泣き出す前触れのように。
「…………御免なさい、アレン。一寸だけ、痛いの……」
「え? ……あ、すまない、御免っ!」
『外』に溢れてしまった想いや、溢れさせられなかった想いや、その他、様々なものがごちゃごちゃに絡み合って、又少し我を忘れたアレンがローザを抱き締める腕には力が籠り過ぎてしまっており、囁き声でそれを彼女に訴えられた彼は、慌てて、彼女を抱き締めていた手を、支えるだけのそれに変える。
「あ、あの……。……アレン。アーサー。心配させてしまって御免なさい。私なら、もう大丈夫よ」
あたふたと泡を食ったように詫びてきた彼に、平気、と微笑み掛けてから、ローザは自らの力で立ち上がった。
「でも……」
「本当に、もう大丈夫。心配しないで。けど……、私、どうして……? ……その、あの魔物が使った術は、ザラキだったでしょう?」
「アーサーが、ザオリクを使ってくれたんだ。だから」
「ザオリク……? ……アーサー、それは本当なの?」
「はい。一寸前に、精霊達とあの術の契約を結べたんです。あちこち飛び回っていた最中のことだったので、アレンにもローザにも伝え損ねたままになっちゃってて、その内二人にも言わなきゃ、とは思ってたんですけどね。使わずに済むに越したことはない術なので、ロンダルキアの祠に辿り着けたらでいいかな、とも思ってしまっていて」
「…………そう……。貴方が、ザオリクを…………」
それでも、アレンは不安気に彼女を見詰め続けて、心配性ね、と再度彼に笑い掛けながらも、ローザは、何故自分が助かったのかを不思議がり、その訳と、アーサーの言い分を知った途端、困惑した風に眉を顰めた。
「ローザ? ザオリクがどうかしたのか?」
「……いいえ。何でもないの。アーサーったら何時の間に、と思っただけよ。──有り難う、アーサー。アレンも。有り難う」
そんな彼女の様を、アレンは訝しんだけれど。
彼女はもう一度、にこりと彼へ笑い掛けて、大したことじゃない、と静かに首を振った。