冷たくて、狭くて、小さく窓代わりの孔が空けられただけの塔の最上階に、両手に枷られた鎖もそのままのエドガーが押し込められて、三日が経った。
 身を凭れ掛けさせている、生まれ育ったフィガロの城を形造る、石の壁が、石の床が、こんなにも冷たく『重たい』ものだと感じた事は、未だかつて、なかった。
 見上げた壁の、手など決して届かない、遥か高みにある小さな小さな『窓』は、硝子も嵌め込まれてはおらず、薄く射し込む日の光を取り込んではいるけれど、風もなく、動きもないのに舞い上がる埃達を照らす以外の役割を果さず。
 四角く白く、浮き上がる窓……否、孔は……確かに『白く』、空がそこにある事を見せつつも、本当の空など、決して映してはくれなかった。
「セッツァー……」
 床の上に適当にばら撒かれた藁の束に腰を降ろし、壁に凭れ、無事でいるだろうか……と彼は、恋人の名を呼んだ。
 大神官が、近い内に下るだろうと告げた『厳罰』は、今だ下らない。
 この三日、重たい鉄の扉を開くのは、宵の口頃、日に一度の食事を運んで来る下働きの者だけだった。
 貴族達は、同性愛の罪を犯したとは云え、それでも国王陛下ではあった彼の最終的な処分を、今だ決め兼ねているのだろう。
 ────己の運命は恐らく、このままこの塔に死ぬまで幽閉され続けるか、公開処刑か、最悪の場合、同性の恋愛を禁じ、こうして国王すら罰しながらも、己達は、愛も恋もない、欲で満たされるだけの背徳行為にそれこそ耽り続ける、神官達の慰み者として『払い下げられる』かの、何れかだろうとエドガーは想像している。
 彼としては、この塔で、鎖に繋がれる辱めを受けたまま飼い殺しにされるくらいなら、自ら死を選ぶつもりでいるし、唯一の人に愛された身を、幾人もの神官達に陵辱され続けるくらいなら、やはり、死を選ぶつもりだから、どの様な処分を、権力を握った老人達が採択しようとも、結末は変わらないのだが。
 最愛の恋人を、こんな馬鹿げた話に巻き込んでしまった事だけが、胸に痛かった。
 王宮の中の権力争いなど、無縁の世界で生きて来た彼を、不慮の事態に巻き込んでしまった事だけ、が。
 背徳だと、過ぎる程に判っていながら、彼を愛した事に後悔はなく。
 こうなってしまった事を、憂う気もなく。
 この先、どうなってしまうのかも判らない祖国と、祖国の民に対する詫びの思いも、湧いては来なかった。
 数日後には、他人の手によってか、自らの決断にてか、それは判らぬが、己が死ぬだろう事にも、そう深い感慨は、ない。
 国教最大の禁忌を犯してまで、彼を愛する覚悟があったのと同様、何時かその罪で罰せられても致し方ないと思えるだけの覚悟なぞ、遠の昔から、エドガーには出来ていた。
 唯……唯々、無事に逃げ遂せたのか、そうではないのか、その運命が知れぬ恋人の事だけが……、こうなった今でも尚、彼の心を占めていた。
 ──立場も現実も忘れて、何故彼を愛したのだと、人は問うかも知れない。
 何故、その身の消滅すら願う愛され方を受け入れたのだと、思われるかも知れない。
 けれど。
 何も彼も忘れ去る程、彼は自身の全てだった。
 彼の愛し方は、同じ愛し方をする自分にだけは、理解が叶った。
 だから、愛した。
 誰に理解されずとも、誰に侮蔑されようと……そう、禁忌であろうと。
 構いはしなかった。
 例え、誰に知られようとも。
 愛しているから。
 それだけが、全てだった。
 哀しく優しい彼の望みは全て、己が望みに等しかった。
 …………罪を犯したのだから、罰せられるのは、当然の事なのだろう。
 あの老人達に、一言も言い返してやれなかった事は確かに、心残りだが。
 禁忌を犯したのは事実なのだ、それを、憂うつもりも、恨むつもりも、更々ない。
 それでも愛する事は出来たし、充分過ぎる程、彼は愛してくれたのだから、幸せな生涯だったのだろうとも思う。
 誰が力を得ようと、この先、祖国が如何なる運命を辿ろうと、秩序や『示し』の為にも、ここらで己は、死ぬべきなのだろうとも思うが。
 …………最後に……。
 もしもこの世に慈悲があるなら。
 最後に……一目、彼に逢いたかった。
 愛していると、告げてから、死にたかった。
 悦びも、哀しみも、痛みも、嘆きも……全てのモノを、この世の何処かで与えられてしまう前に、その『全て』で与えてくれようとしていた彼に寄り添えない事だけが、悲しかった。
 彼の抱え続ける不安を、晴らしてやれぬ事だけが、辛かった。
 死ぬ前に、一目、彼に逢って。
 愛しているから。
 嘆かないで、不安に駆られないで、と。
 そう……告げたかった。
 ──だから。
 彼は、冷たく重い、石の壁に凭れて、最愛の人の名を呼び続けた。
 

 

 

 手に枷を嵌められたまま、セッツァーは、地下牢の床の上、己が流した血と汗の溜まりの中に、横たわっていた。
 造反の夜から三日。
 日々繰り返される異端審問官の仕打ちに、その日は意識を飛ばした。
 気が付いた時にはもう誰もおらず、その時から既に彼は、その姿勢でいたのだが、立ち上がる事も、半身を起こす事も、痛めつけられた体は許してはくれず。
 気付かぬ内に噛み切っていたらしい唇の端から舌先へと伝わる鉄の味に、胸の奥から微かに込み上げる血の気配に、渋い顔を作って、天井と、床と、鉄格子の向こうを何度も見比べて、時をやり過ごしながら。
「……エドガー……」
 彼は、恋人の名を呟いた。
 ──彼の人が、この砂漠の国の王『だった』……と云う、三日前まで、セッツァーにとっては苦々しいそれでしかなかった事実が、きっと今は、幸いしているのだろう。
 幾ら、恐らくは貴族や神官達が画策しようとも、数日前まで国王陛下だった者を、一つの証拠もなく、罪人と断ぜられる程、事は簡単ではないのだろう。
 偽りの証人を立てる事も、難航しているのかも知れないし。
 もしかしたら、老人達に傀儡に相応しいと白羽の矢を立てられたろうマッシュが、何とかしようとしているのかも知れない。
 だから自分が、こうして何とかでも生きていられて、審問官がここに通い詰めている間は、エドガーもきっと生きている……と、セッツァーは信じていた。
 ──眠りの為にあてがわれた部屋に、衛兵達が侵入して来た刹那、同性愛の禁忌を犯す、大罪人として捕える、と云われて……一瞬、彼の抗いの手は、弛んだ。
 ……誰に真実が知れようと、本当に、構わなかった。
 自分とエドガーの事に、他人の口が挟まるなど真ッ平御免だと、心から思っていた。
 その態度が例え、『崩壊』へと繋がろうと、他の愛し方など選べぬと、彼は確かに。
 ……が……いざ、その時が来てみれば。
 最愛の者を、最愛だと告げて何が悪い、唯一の者を愛して、何が罪なのだと、そう胸を張るよりも先に、終わりが、破滅が、音を立ててやって来たのだと……そんな悲嘆に塗り潰される方が、早かった。
 こんな風に崩壊を招き寄せてしまう前に、何故もっと、彼を労り、彼の立場を重んじなかったのだろうと、後悔さえ、あの刹那に、彼は覚えた。
 …………エドガーに向けた『愛』が、間違っていた…とは、セッツァーは決して、思わない。
 否、間違っているのだとしても……真実、間違っていても……そう。
 どんなに優しく愛してみても。どんなに睦言を囁いてみても。どんなに悦びを与えてみても。
 幾億もの夜、躰を重ねてみたとしても。
 一つに混ざり合う事なんて、永遠に、叶わないから。
 彼を、『もいで』しまいたかった。
 離したくなかった。逃したくなかった。
 この身の中で、魂の中で、最愛の彼を、微睡ませたかった。
 ありとあらゆる『モノ』が渦巻くこの世界の中で、真実の意味で溶け合う事は叶わず、二人、寄り添っているしかないのならば、世界に渦巻くありとあらゆる『モノ』を、己が手で、最愛の人に与えたかった。
 だから、『そうして来た』。
 そんな愛し方しか、セッツァーは知らなかった。
 不安で、不安で、彼の姿が見えないだけで不安で。
 だから時には恋人に、苦痛さえ与えてしまったのに。
 こうなって初めて、悔恨すら、胸の中に過る。
 ──この想いを、この不安を、エドガーだけは汲んでくれる事に、甘えていたのかも知れない……と、あの刹那、考えたから。
 縛に付く事に、抗い切れなかったのに。
 崩壊の先にあった扉を開けてみれば、どうだ?
 その扉の向こうにあった、真実、は…………──。
「エドガー……。無事、か……?」
 ──血と汗で湿る、地下牢の床に横たわりながら。
 セッツァーはもう一度、愛しい人の名を呼んだ。
 たった一つの愛し方しか知らないからと、恋人に甘えていた癖に、刹那の時は、後悔に苛まされ。
 結局、真実守りたい人を、守る事すら叶わぬ己に、ほとほと、呆れながら。
 例えこの身がどうなろうと、死を選ばず、黙して語らぬ内は、恋人も生き長らえると、信じて。

 

 

 

 

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