静寂を乱してはならぬと、そう思い込んでいるのか、日に一度の入室の際、下働きの男が出来る限り音を立てぬ様にしているのは、エドガーにも判っていたから。
 幽閉されて五日目の夜、鉄の扉の閂が、やけに乱雑に開けられる音を、藁の上に横たわったまま、訝しく思いながら、彼は聞いていた。
 否、閂を開ける音だけではなく。
 今宵は、塔の外から洩れ聞こえる音も、漂う雰囲気も、何処か騒々しく、張り詰めた感を含み、ざわざわとしていた。
 ──きつく戒められた鎖は緩められる事もなく、食事をするのも、身の回りの事をするのも阻んで、あまつさえ彼の手首を傷付け、じくじくとした痛みを生んでいたし、傷付いた、肉の薄い肌からは、膿みを含んだ血が絶え間なく流れていたから、日が経つにつれ、壁に体を預けている事さえも、エドガーには辛い事になっている。
 あの日、あの夜、選んだままの白い夜着は、寒暖の激しい砂漠の夜を乗り切るのに相応しくないだけでなく、背以外の殆ど全てに、黒い、又は暗い茶色をした血の染みが斑にこびりついて、見るからに、凄惨、とでも云うべき風情だった。
 それを纏ったままの人にも、又。
 凄惨、と例えるに相応しい風情を与えるかの如く。
 ……それでも、彼は。
 閂が開けられ、蝶番の軋みが室内に響き終えると、痛み、血を流し続ける両手を付いて、身を擡げた。
 それは、未だ光を宿している紺碧の瞳が示す様に、祖国の王だった彼の気高さなのかそれとも、訪れる男に問い続けている、恋人の安否を確かめる為になすべきと判断された故の事だったのかは、判らないが……エドガーは身を起こし、そして振り返った。
 だが、手に燭台を掲げて、牢に踏み入って来た人物は、五日前のあの夜、『裁き』を下した大神官と、供に着いた、二名の神職者達で。
 ああ……と、エドガーは、胸の中で呟いた。
 終わりの刻が来たのだと。
 如何なる『決め事』を、神職者達が吐くにせよ、己は今宵、死ぬのだと、そう悟ったが為に。
「エドガー・フィガロ」
 供の者に、手渡した燭台を、入り口に掲げる様に命じ、大神官は、そんな彼に向け、神の僕たる者とは思えぬ、下衆な笑みを浮かべる。
「厳罰とやらが、決まったのかな? 大神官……様? 今夜はやけに騒がしい。そちらも、姿を見せた」
 相手の薄ら笑いに、ツ……と、嫌な汗が背中を伝うのを知り、わざとらしい軽やかな声音で応えつつもエドガーは、ジリッと退いた。
 だが、縛められたまま座っていた彼の後退なぞ、「騒がしい? ああ、そう云えばそうだが、何が有ろうと我等にもここにも関係ない」と呟きながらの、大神官の数歩に渡る歩みで打ち消され。
「貴族の皆達は、そなたを処刑する事を願ったのだがな……」
 呆気無く彼は、肩を掴まれる。
「罪人とは云え……一度は祖国を治めた者。黙って死なせるのも、惜しかろうし悔しかろう。……どうだ、神の慈悲が欲しくはないか?」
「……その様なもの、遠慮させて貰う」
 身を捩り、肩を掴む手を振り払い、エドガーは、仮面に描かれた様な笑みを消した。
「正直に云ったらどうなんだ? お前達が与えたいモノは、慈悲などではないだろう。私に何をさせたいっ……」
「…神の慈悲だと、云っておるだろう。そなたが真実、あの者と、禁断の関係にあったか否かは知らんが……どう足掻こうと、真実がどうだろうと、そなたはもう、大罪人だ。何もせねば、処刑以外の道は開かれぬ。だが、我等の『慈悲』を受けれるとあれば、話は別だ。……そうすれば、生い先は長い、が?」
 ……しかし、大神官は表情を変えず。
「断わる」
 エドガーは、紺碧の瞳に、怒りを乗せた。
「強情な事だ」
 ──神職者は。
 溜息を零し、そして供の者に、目配せをした。
 合図が交わされるや否や、供の者達が、藁の上へと彼の躰を押さえ込み、頤をも押さえ、こじ開けた口に、手早く解いた神官服をゆるやかに纏める、幅の広い腰帯を丸めて噛ませた。
「『慰み』も、慈悲だと思えば、どうと云う事はあるまい?」
 それは、胸の中だけで、最愛の人への別れを告げたエドガーが、舌を噛み切るより一瞬早くなされ。
 自害の術を、彼は奪われる。
「そなたがもっと若い頃から、随分と美しい王だと、そう思っていた。さぞや好い躰で、善い声で鳴くだろうとも、思っていたよ。葬ってしまうなら葬ってしまうで、無難な選択だとは思うが、味を知るのも悪くなかろうし。躰如何では、生涯、神殿で『預かって』もいい。……ああ、案じなくとも、男の味か、薬の味か、その何れかでも覚えれば、抵抗なぞ直ぐに無くなるから。……楽しむといい。こちらも、愉しむ」
 ……下衆な表情を、薄ら寒い作り笑いへと移し替えて、跪いた神職者が、彼に被い被った。
 陵辱される前に自害を果す事も、叫びを上げる事も叶わず。
 縛められたままの腕は元より、無理矢理広げられた両の脚も、足掻かせられず。
 近付いて来る男から顔を背けてエドガーは、固く固く、目蓋を閉ざした。
 それでも。
 耳朶に掛かる息は感じられ、血糊に強ばる夜着の上から躰を撫で回す指先の感触も伝わり。
 怖気に仰け反った首筋に喰らい付いて来た、生暖かい唇や歯に震え、ざらりとした舌の触りは、吐き気を呼び。
 喰らわれたそこを起点に、穢れがじわりと広がり出すかの様に思えて、閉ざした眦に、涙を彼は浮かべた。
「…んっ……」
 夜着の帯に、大神官の手が伸びたのを察して、くぐもる彼の声が詰められる。
 ……が、衣装が、襟元からはだけられる寸前。
「……本当に、騒がしいな。あの王子が何を喚き立てようと、ここにまで煩いが届く筈もないのだが……」
 何処より聞こえる騒がしさが、一層増すのを受け、のしかかりつつあった男が振り返る気配を、エドガーは察し。
 そろそろと、涙で曇る瞳を、細く開いた。
 すれば。
 閂が外されたままの、重たい鉄の扉が、荒々しく開かれる音が聞こえた。
「そなた、は…………──」
 振り返ったままの大神官が、そう云って身を強ばらせたのも、判った。
 だが、何が起きているのかは……押さえ込まれたまま、身動きの取れぬ彼には──二人の神職者が自身を押さえる手の力を、緩ませつつある事に、彼は気付けなかったから──、知りようもなかったが。
 それから一拍程置いた、次の刹那。
 眼前に、確かにあった……否、無くなろう筈もない、大神官の首が、軽やかに。
 鮮やかで、滑らかで、美しい切り口を残して……。
 ──刎ね飛んだ。

 

 

 

 

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