塔を守る兵士達との戦いは、五日に渡り投獄され、審問官の『尋問』を受けた体を引きずるセッツァーには、少々、荷が勝ち過ぎる感があったが。
所々に手傷を追いつつも彼は、着実に、そして迅速に、塔の螺旋階段を昇り……やがて、昇りつめた。
身勝手な愛を貫き通して、けれど土壇場で守り遂せなかった恋人に報いようと。
……彼をこの身の中に、魂の中に、閉じ込めてしまいたかったのも、『もぎたい』とすら思い詰めたのも、全ては、彼を案ずるが故で、彼を守りたい想い故のそれで。
思い詰めたりなぞせずとも、彼を守れれば、彼を想って、彼を案じて寄り添えれば、それで良かった筈なのに、自分は……と。
セッツァーは、閂の外されている最上階の、重い扉を開いた。
────そんな彼が。
そう思いながら、一歩一歩、階段を昇り続けた彼が。
開いた扉の中で見たもの、それは。
守りたくて、世界に渦巻くありとあらゆる『モノ』を、己が手で、与えていたくて。
与えて欲しくないものを、与えて欲しくない『他人』に与えられるくらいならば……──────その前に。
そう『誓った』恋人が、男達に押さえ込まれ、のしかかられる……己以外の『他人』に穢される、あってはならぬ光景、だった。
──刹那。
……息をするのも忘れ。
光景に食い入り。
開け放たれた扉の音に振り返った男の一人が、驚愕の内に何か云い掛けるのを、ぼんやりと見遣って。
彼は、ゆら……と剣を掲げた。
視界は、真っ赤に染まっていた。
考えずとも、腕は動いた。
剣が、それを握る己が手が刎ね上げた、男の首が、規則に則った放物線を描くのを、世界の時と、軸を違える時の中で、セッツァーは見守った。
男達が、恋人が、自身が……吹き上がった朱(あけ)の迸りを浴びても。
セッツァーは唯。
命屠るべき二人の男達へ、嗤いを向け。
一つの事だけを、考えていた。
…………守りたかった。
恋人を、『守りたかった』。
けれど自分は一体、恋人の『何を』、守りたかったのか……と。
────喜びも、苦しみも、哀しみも、愉しみも、彼の全ては、その身も心も、己のものでしかなく、痛みも、苦しみも、嘆きも、彼に与えるのは、自分だけで良く。
一遍の悦びであろうと、一遍の苦しみであろうと、『他人』の手によってエドガーに与えられるなど、許される筈もなく。
なのに、この光景は?
間違っているのだろう愛を、『正そう』と誓い掛けた途端、『世界』に広がる、この光景は?
……許せない。許さない。許される筈もない、何も彼も。
苦しみも怒りも、哀しみも恨みも、全てが綯い混ぜになる。
出来事の始まりなど、最早どうでもいい。
『他人』の手に触れられてしまった恋人にさえ、殺意が募る。
均衡は、崩れそうだ。
訪れたと思った『崩壊』は偽りで。
真の『崩壊』が訪れそうだ。
──愛して、愛して、愛して。
けれど殺意さえ、覚えて。
なのにもう、彼を、『失う』形では、手放さないと……たった、今…………────。
激しく音を立てて上がった血飛沫は、鮮烈、で。
唖然としたまま、『それ』を見遣る事しか出来なかったエドガーも、二人の神職者も、しとどに濡らした。
…………やがて。
エドガーの視界の、何も彼もを紅に塗り替えた、鮮やかで紅(あか)い飛沫が少しずつ収まり、ゆるり…と、数を数えれられる程の、沈黙の刻が過ぎ行きた後。
彼の両脇からは、耳を劈く悲鳴が上がった。
…そこで漸く。
何事かと……もがきつつも、押さえ込まれていた身を返した彼の、瞳の先に。
視界の全てが、血塗られた故ではなく。
現実に……そう、確かに。
紫紺の瞳を、紅く染め上げる程の怒りを湛え、途切れぬ悲鳴もそのままに後ずさる神職者達へと嗤い掛ける、最愛の人の、壮絶な姿があった。
入り口に掲げらた灯火が、幾分、逆光の加減を見せる中。
肩で息をし。
長い、銀の──否、今だけはその半ばまでが紅く染まった髪を激しく乱して、幾筋も、剣で斬られた跡をコートに残し、その全身から、自身が傷付いた故のそれなのか、ここに辿り着くまでの戦いを物語るそれなのか、それとも……たった今、切っ先の一閃の元、首を飛ばした男の返り血なのか……その、何れとも判らぬ血の飛沫を滴らせている姿、が。
「待たせた、な。エドガー……。悪かった……」
…………鮮烈で、鮮麗で、凄惨、な。
そんな佇まいのまま、セッツァーは、男達に向けた嗤いとは天地の隔たりを持つ、この上もなく穏やかな微笑みを、恋人に向け。
足だけには別の意思宿る様に歩きながら、壁際へと下がった男達を追い掛け。
────にこり、と。
最愛の人へと湛えた笑みは深め、注いだ眼差しは微塵も逸らさず。
伸ばした腕の先、手首だけを返して、二人の男の喉首を、掻き斬った。
…カラン……と。
再び上がる血飛沫の中、打ち捨てる音も甲高く、セッツァーは剣を手放す。
「…エドガー……」
微動だに出来ずにいるエドガーへと近付くと彼は、口内に押し込められた布を取り去り、手に枷られた鎖を解いて。
コートに隠された衣装の袖を引き裂き、紅く濡れた恋人の面を、そっと拭い出した。
「セッ………あ、の……」
優しく『滑り』を取り去りつつも、躰に添えた指先で、男達の触れていた部分に爪を立てる恋人の、全てに戸惑い、エドガーは言葉を探す。
「……ん?」
けれど。
様々に過る想いは、音になどならず。
唯、眼差しを以て、何故、ここに彼が姿見せられたのか、今までどうしていたのか、エドガーは問うた。
「想像は、付くだろ?」
がセッツァーは、声音は優しく、弁は簡潔に答えるのみで。
エドガーは益々、困惑の色を深くした。
「…………判らない、か?」
すれば。
完璧とは言えぬまでも、恋人の面の血糊を拭い終わり、首筋をも拭いきったセッツァーの紫紺の瞳が、再び、紅に染まった。
「……え……?」
「俺はお前を……攫いに来た」
恋人の首筋に残る、拭っても拭っても消えぬ朱の色と、歯列が付けたらしき痕に、優しく穏やかな声音とは裏腹の激しさを込め、セッツァーは、食い込む程にきつく、爪を立てる。
「許さない。……許せない。…………もう、こんな事は、許せない……。俺はお前を、助けに来たんじゃない。……お前を、攫いに来たんだ……」
そしてそう告げて、彼は。
コートを脱ぎ、無いよりはマシだと、エドガーに着せ掛け。
抱き抱える様にしながら、立たせた。
「でも、セッツァー……」
「──詳しい事は、後で幾らでも話してやれる…と思う。お前は黙って、俺の傍にいればいい。……もう、こんな所にお前を置いてはおけない。……連れて行く。何処か、遠い所に。……いいな? 俺の傍を、離れるなよ」
一度(ひとたび)は投げ捨てた、血塗れの剣を拾い上げ、恋人の肩を抱いたまま、彼は、出口へと向き直り。
恋人を支えつつ、階下では衛兵達が待ち構えているだろうその塔の、螺旋階段を降り始めた。