それが、何処の街なのかは、云う事は出来ない。
 唯、その街の。
 綺麗に敷かれた石畳の歩道を少しばかり長めに歩いて、と或る民家の角を右に。
 少し細くなった路地の、今度は一本目を左に。
 更に細くなった路地裏を、又、暫し歩いて。
 突き当たりで立ち止まり、左手の木戸を押し開け。
 廃屋の庭を通って、勝手口の鉄の扉を約束通りに叩けば。
 そこには、華やかだが、裏社会の汚さの象徴でもあるカジノが、ある。
 この話は。
 そんな場所での一夜を綴った物である。
 だからそれくらいは、この物語の冒頭に書き添えても、良いだろう──。

 

 

 その夜、彼、セッツァー・ギャビアーニは。
 廃屋の勝手口、鉄の扉を約束通り叩いた。
 人相の、決して良くない男が、胡散臭げな視線を、扉の向こうに立った彼に向かって投げつけて来た。
 尤も彼は、その様な視線など、物ともせずに。
 案内をしようとしたその男を片手で押し退け、一人、地下へと続く階段を降りた。
 薄暗くて足場の悪い、細い木の階段を降り切り、もう一枚の鉄の扉を彼は開ける。
 その向こうには。
 陰気な空間とは全く切り離された、けばけばしいまでにきらびやかな、賭博場が広がっていた。
 夜半過ぎ、ふらりと現れた、この秘密カジノでは余り見掛けない客の到来に、客達も、ディーラー達も、一斉に彼を見やる。
 漆黒のコートの中で、セッツァーは、軽く銀の前髪を掻き上げて、真っ正面の席を陣取る男に向けて、不敵に笑った。
 注がれる、幾多の視線を簡単に退けて、彼は歩き出した。
 紫紺の両目で見つめた、真正面の男目指して。
 高い、カツカツとしたブーツの音も押さえようとはせずに。
 低く流れるバックグラウンドミュージックを、自らの足音が掻き消している事を、セッツァーはきちんと自覚していた。
「よう。来てやったぜ?『わざわざ』。…俺に用があんだろ?」
 扉を開け放った瞬間から見つめ続けていた男の前に立ちはだかって、見下ろし、彼はゆるりと腕を組んだ。
 大抵の者なら。
 彼の鋭い紫紺の瞳に、こうやって見つめられたら視線を逸らすのだが。
 布貼りの椅子に深々と腰掛けた相手は、セッツァーを見上げてニタリと笑った。
「待ってたぜ。ギャビアーニ」
「待ってた?…ご足労様でした、の一言くらい、言えねえのか?」
 組んでいた腕を、又ゆるりと解いて。
 セッツァーはコートのポケットに右手を差し入れた。
 くしゃりと丸まった白い物を取り出し、緑色のビロードの、ポーカー台の上に投げ捨てる。
 セッツァーが投げ捨てたそれを、男は無表情に拾い上げて、丹念に皺を伸ばした。
 投げ捨てられ、そして拾われたそれは、一枚の紙だった。
 良く良く見れば、無数の皺の他に、紙には正しい折り目があって。
 中心に小さな、穴が空いていた。
 男から視線を外してセッツァーは不快げに、ちろりとその紙に視線をくれる。
 昼間。
 たまたま立ち寄ったこの街のパブで、ダーツの矢毎、セッツァーのテーブルに投げ付けられたそれ。
 もう、何処の賭場での事だったか忘れたが。
 ポーカーの勝負で、セッツァーに煮え湯を飲まされた経験のある、眼前の男からの『招待状』。
 こんな馬鹿げた挑戦状など、見て見ぬ振りをすればいいのだと、判っていながらも、指定されたカジノに足を運んでしまう自分の、どうしようもない性を、くすりとセッツァーは笑いながら、紙片から男へと、眼差しを戻した。
「何がご所望だ?お前さん」
「………あの街で。あんたと勝負をしたろう?ポーカーの。覚えてるかい?」
「…さてね。博打なんざ俺にとっちゃ、三度の飯よりも頻繁なんでね。一々、俺に負けた相手との勝負なんざ、覚えていない」
「だが。俺が負けた事を覚えてやがるんだ、俺の事は覚えてるんだろう?ギャビアーニ」
「そいつぁ、誤解だな。お前さんの事を、お前さんとの勝負を、覚えてるんじゃない。俺はな。他人に負けた覚えなんざない。…それを、覚えてるだけさ」
 何処か、悔しそうな顔をして、そう問い詰める男に向けて。
 馬鹿にした様にセッツァーは鼻で笑った。
 一瞬男は、さっと顔面の色を変えたが、吐き出そうとした言葉らしき物を飲み込んで、右手の親指で、トントン、と、ビロードのポーカー台を叩いた。
 促されるままに。
 セッツァーはテーブルを周り、男の正面に陣取った。
「勝負か?それに俺が乗れば、お前さんは満足か?」
「ああ。そうさ。その為にわざわざ、あんたを呼んだんだ。…リベンジって奴さ。ラッキーだったよ。たまたま昼間、あんたをこの街で見掛けて。こんなにも早く、あんたに挑み直せる機会がやってくるたあ、思ってもいなかったぜ」
「永遠にリベンジに付き合ってやれる程、俺は暇じゃない」
「………ムカツクんだよ。あんたの、自信たっぷりのふてぶてしい態度。常勝無敗のギャンブラー?…そんな伝説も、今夜で終いだ」
「言われ慣れた台詞だ」
 ──勝負の台に互い付いた途端。
 段々と敵意を剥き出しにして来た相手に、セッツァーは微塵も表情を崩さなかった。
 ほんの少しだけ瞳を細めて。
 口許だけで、薄い笑みを浮かべて。
 彼は、男を見つめ続けた。
 が、やがて彼は、軽く肩を竦める。
「で?勝負は?ポーカー?」
「…ホールディム」
 問い掛けに男は、ルールを口にした。
「ホールディム……ね。OK。それでお前さんの気が済むならな」
 緑の台の上に両肘を付いて、セッツァーは両の掌を広げた。
 男が片手を上げて、そのポーカー台のディーラーを呼ぼうとしたが。
「待った」
 それを彼は押し止めた。
「何だよ」
「挑戦者はお前さんだ。ディーラーの指定は俺がする」
 そう云うとセッツァーは、サシの勝負が始まりそうな予兆を嗅ぎつけて、台の周囲に集まって来ていた野次馬の中から、近場にいた一人の男を手招いた。
 場に投げ出されていたディーラーマーカーを、投げ渡しつつ。
「イカサマでも恐れてるのか?ギャビアーニ。臆病風にでも吹かれたか。伝説のギャンブラー様とも有ろう者が?」
「フン…。賭けは何時でも、どんな物でも真剣勝負だ。戦と同じさ。…臆病過ぎる程でなけりゃ、火傷するのは定石だろうが。そんな事も判らねえのか?…挑戦者?」
 ──セッツァーからマーカーを受け取った男が。
 慌ててカードをシャッフルする音が響き渡る中。
 セッツァーと男は、低く言葉を交わした。
 勝負はもう、始まっているのだ。
 どんな言葉を浴びせられても。
 ポーカーフェイスを貫き通す処から、既に勝負は。
「アンティは?」
 ディーラー役の男が、鋭い視線を交えている二人の男に声を掛けた。
「10ギル」
 挑戦者が答えた。
 セッツァーは無言で、懐から金貨を投げ出す。
「持ち金は互い10000ギル。所持金が無くなるまで、ゲームは続けさせて貰う。賭けのレートは相場の十倍。いいな?」
「構わねえよ。夜が明け切る事はないだろうよ」
 提示された条件に、セッツァーが頷いたのを合図に。
 ディーラーが、シャッフルしたカードを、切った。
 光沢のあるカードが、小気味良くビロードの台の上を滑る。
 挑戦者に二枚、セッツァーにも二枚。
 伏せられたカードが、行き渡った。
 

 

 

 

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