「聞こえなかったのか?2000、だ」
 柳眉一筋動かさず、彼は再び金額を告げる。
 ざわりと、周囲がさざめいた。
「続行を」
「……は、はい…」
 冷たく促すセッツァーの言葉に、ディーラーは残り二枚のオープンカードを場に開いた。
「オプション?」
 全てのカードが揃い。
 アクションの指示が掛かる。
 相手からの、更なるアクションは、無かった。
 ぴたりと、男の動きが止まったのを見て。
 中年男のディーラーと、取り巻く『野次馬』達の眼差しが、全てセッツァーに注がれた。
「フン…………」
 十一人の、突き刺さる様な視線を一身で受け止めて。
 彼は、頬に笑みを浮かべた。
 紫紺の瞳は、うっすらと細められる。
 眼(まなこ)の奥に宿る紫紺が、刹那、色を変えたかと錯覚する程、妖しく光った。
 それは。
 壮絶と云う言葉ですら言い表す事の出来ない、常勝無敗のギャンブラーの表情だった。
 その夜、その場に居合わせた者全てが。
 この男には、二度と出会いたくないと、心底願う様な、怖気立つまでの、表情。
「…ディーラー。キャップのコールを」
「…キャップ?」
「そうだ、キャップだ」
「……判りました…」
 ──人々を、身震いする程の何かに陥れたまま。
 セッツァーは冷静に、次のアクションを起こした。
「そして、リレイズ。上乗せさせて貰うぜ?……オールイン」
 畳み掛ける様な、セッツァーの再びのアクションに。
 周囲の騒めきは、どよめきとなった。
 ちらりと覗いただけのカードを、取り替える事もせずに。
 ──勝負を降りるか青天井の金額を賭け続けるかの、二者選択へと、自分と相手を追い込んで、更に彼は、全額をこの勝負に投じたのだ。
 騒めきが、どよめきへと変化したのも、無理はないだろう。
「all or nothing. 引くか、進むか。お前さんは、どっちを選ぶ?魅惑的だとは思わないか?20000ギルのコイン。…コールさえすれば。それがお前さんの手に転がり込んでくるかも知れねえ…。常勝無敗のギャンブラーの伝説も。お前さんの手で、終止符が打てる『かも』、知れない…」
 誘(いざな)う様に。
 パンと、セッツァーはオープンカードの一枚を弾いた。
 衝撃で、カードはビロードの上を滑って、男の肘辺りにぶつかり、止まる。
 己が手札と、セッツァーの顔色を見比べたまま。
 男は、動こうとしなかった。
 否、動く事が出来なかった。
 チロッと、上目遣いの視線を、セッツァーの背後に陣取る阿婆擦れ女達に向けてみても。
 伏せられた手札を知る事など、出来よう筈もなく。
 ディーラーへと視線を移してみても、中年男は、こっそりと首を振るだけで。
「どうした?チャレンジャー?俺がムカツクんだろう?馬鹿げた伝説に、終止符を打つんじゃなかったのか?……チャンス、だぜ?……次のアクションを起こすのは、お前さんだ」
 ピタリと動けなくなっているのが、判っているのかいないのか、追い打ちの様に男の身に覆い被さる世界一のギャンブラーの声音は、何処までも澱みなく、自信に満ち溢れているから。
 挑戦者が、己が手札を握る手は、小刻みに震え始めた。
 壮絶な面の向こうには、他のどんな感情も読み取る事は出来ない。
 盗み見ても。
 セッツァーの、眼差しからも、微笑みからも、声音からさえも、漲る絶対の自信の他には、何も。
 思考を巡らせても。
 男の中で弾き出される答えは、何度試してみても、伝説のギャンブラーの勝利。
 常勝無敗の男が。
 勝利の女神に愛された様な男が。
 これだけの自信を、あからさまに見せつけてくるのだ、彼の手札は、余程。
 しかも彼は。
 カードをチェンジすらしなかったではないか。
 最低の50ギルから始まったベッドを、2000ギルへと吊り上げ、挙げ句の果て、オールインまでして見せた。
 セッツァー・ギャビアーニは、勝利を確信している。
 絶対に、負ける筈がないと、自負している。
 コールをすれば。
 そう、彼の云う通り、勝てるかも知れない。
 伝説に、終止符を打てるかも知れない。
 だが。
 だが…………。
 有り得ない、この勝負に勝つ事は。
 勝負など、打って出れない。
 恐過ぎる。
 恐ろし過ぎる。
 伝説のギャンブラーの、こんな微笑みを前にして。
 それでも、勝負に乗る事など…………────。
「俺の、アクション、は……──」
 ──長い。
 それはそれは長い沈黙の後。
 挑戦者の男は、漸く、唇を動かした。
「アクション、は?」
 壮絶を越えたセッツァーの笑みが。
 又、少し、深くなった。
「フォールド……だ」
 挑戦者、は。
 震える手から、ぽとりと手札を落とした。
 彼はゲームを降りたのだ。
 賭けに負けるのも。
 リベンジが叶わないのも。
 コインが戻らぬ事も、承知の上だった。
 格の違い過ぎるこのギャンブラーの呪縛の中から。
 逃げ出したい欲求の方が、先だった。
 潜った修羅場の数が違う、とは。
 こう云う事を云うのかも知れない…と、男は思った。
「俺の、勝ち。そう云う事だな?」
 伏せたままの、己の手札をビロードの台から掴んで。
 セッツァーは勝敗の行方を告げた。
 …ポーカーゲームは。
 例えカードがショウダウンされなかったとしても、勝負の場に残ったプレイヤーが、たった一人になってしまえば、その人物の勝利が確定する。
 全額を投じた、その夜のラストゲームに。
 セッツァーは勝利を納めたのだ。
 常勝無敗。
 勝利の女神に愛された。
 …そんな、彼を取り巻く伝説通りに。
「ああ……」
 人々が、見守る中。
 力無く答えた男に、一転、セッツァーは、壮絶な笑みを翻し、心底、愉快で堪らないと云った、破顔とも例えられる表情を向けた。
「show…down」
 不敵な笑みを辺りに振りまき、彼は立ち上がると同時に、手に掴んだ手札をぱらりと、台の上に投げた。
 人々の刹那の眼差しを。
 今度はカードが、一身に受けた。
 ………又。
 どよめきが上がった。
 人々が目にした、セッツァーのカードは。
 どう足掻いてみても、どんな風に、五枚のオープンカードと組み合わせてみても、何の役も成さない、そのラストゲームでは、クズの様な役目しか果たさない、カード達だった。
 唖然、と。
 挑戦者は彼を見上げる。
 勝利を確信した様にしか見えなかった、彼の自信に満ちた笑みも態度も。
 何も彼もが、『ブラフ』だったのだ。
 完璧なまでの、はったりだったのだ。
「最高のカードを揃えるだけが。ギャンブルの勝ち方だとでも、思ってやがったか?」
 そんな捨て台詞と共に。
 彼は漆黒のコートの、何処からともなく、又、カードを取り出した。
 パラパラとビロードの台に蒔かれるそれは。
 ラストゲームの始まり、呪いの真似事だと云ってカードをシャッフルした時、一癖もニ癖もある者達の目を掠めて、抜き取った、セカンドディールのイカサマに使われる筈だったカード達。
 傍目には、唯、何気なく、鮮やかにそれをシャッフルしただけにしか見えない手付きの裏側で、彼はそれだけの事をしていた。
「ブラフってなあな。こう云う風に、やるんだぜ?覚えときな。──イカサマも、程々に……な?チャレンジャー?」
 ──ラストゲームの。
 全てが己の中で計算されていたのだと、最後にセッツァーは告げ。
 細く長い煙草を一本、又、取り出し。
 唇の端に銜えて、歩き出した。
 今宵。
 このカジノの扉を開け放った時と、寸分変わらぬ足取りで。
 彼は、鉄の扉を、潜った。
 細い、木で出来た、薄暗い階段を登り。
 人相の悪い男など、眼中にも無くすり抜け。
 もう一枚の、鉄の扉を彼は開け放った。
 その地下に、秘密のカジノがあるなどと、誰も予想だにしない廃屋の庭を横切り。
 何時の間にか火の灯った煙草を挟んだ左手で、木戸を押し開け。
 細い路地裏を、緩慢に歩いて右に曲がり。
 少し広くなった路地の、民家の角を左に曲がって。
 綺麗に敷かれた石畳の歩道を少しばかり長めに歩き。
 彼は、その街を後にした。

 闇夜の中、草原を暫し歩けば。
 そこには彼の相棒が待っている。
 あの、カジノで。
「用事を思い出した」
 …と、そう告げた言葉だけが、あの場所で彼が吐いた、唯一の真実だった。
 ……否。
 正確には、それも真実ではなかった。
 用事を思い出した、のではなく。
 それは、忘れる筈のない、用件だったから。
 彼は今宵、相棒の翼を駆って。
 黄土の大地、砂漠を目指す。
 ──The killing game.
 弱肉強食の、勝負の世界の匂いを纏ったまま。
 いいや。
 勝負の世界の匂いを落として?
 ………いずれにせよ。
 今宵の勝負が。
 砂漠の彼方に住む人の耳に届く事は無い。
 何処の街での出来事なのか、云う事すら出来ない場所での。
 ブラフで満たされたラストゲームの話など。
 愛しい人の傍らで、セッツァーは語りたくもなかった。
 勝負の世界のkilling gameなど。
 これから向かう人の傍には、かけらも必要がないから。

 

 

 

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