兎に角。
誰が何と云おうとも、お前達に記憶がなかろうと、喋れなかろうと、周囲公認の、公然の、恋人同士だったんだ。
だからなのかは判らないけれど、エドガーもお前にだけは懐いてるみたいだし。
これ以上、何も判らない赤ん坊みたいな彼を、不安に貶める訳にはいかないから。
お前が面倒を見てやれ、一緒にいれば、互い刺激になって、記憶も言葉も戻るかも知れない。
────そんな風に。
気絶から目覚めた瞬間、仲間だ、友だ、と云って来た見ず知らずの者達に、口を揃えて説得されてしまったセッツァーは。
今。
己の傍に張り付いて離れない、赤ん坊以下の『これ』を伴い、艇長室と云われた部屋に足を踏み入れ、落ち着かない風に、辺りを見回していた。
自分の部屋だ、と云われても、実感が湧かない。
微かに香る、煙草やアルコールの残り香は、どことなくしっくりと来るし、余り物の多くない処にも、違和感はないが。
それでも、やはり、『この世界』においそれとは、飛び込んで行けなく。
だから彼は、落ち着きを失っていたのだが……。
彼から落ち着きを失わせている最大の理由は、見覚えのない部屋でも、湧かない実感、でもなく。
傍らから離れぬ、『これ』、に他ならなかった。
だから。
「……エド…ガー…つったな、お前……」
ぺとん、と、まるで女のような内股で、己が足元の床に直に座っている『これ』──エドガーを、彼は見下ろした。
だが、名前を呼ばれても、頭上高くより、視線を浴びせられても。
きょとんとした表情で、小首を傾げ、見上げるだけしか、エドガーはせず。
ふん? …と云う声が聴こえて来そうなその風情に、セッツァーは、がっくりと肩を落とした。
「こっちの云うことも、飲み込めねえってか……。こんなん俺に押し付けて、どうしろってんだ……。俺だって、てめえの面倒見るのすら、あやふやだってのに……。赤ん坊だぞ、こいつは……。──ああ、何時までもそんな所にいねえで……」
……唯々、戸惑い。
肩を落として落胆し。
が、セッツァーはそれでも、そんな場所に座っていたら汚れてしまう、とエドガーの体を引きずり上げ、ベッドへと放り投げた。
「う……」
すれば、投げられた拍子に、撓んだスプリングが、投げ捨てられた体を弾ませて。
エドガーは『声』を洩らし、セッツァーを見上げ。
「……あ…」
今にも泣き出しそうに、顔を歪めてしまった。
「…………判った……俺が悪かった……。──っとに、どうしろってんだっっ」
態度だけを見れば何処までも、赤ん坊に等しいのに。
体躯だけは立派な大人である、本物の赤ん坊よりも質の悪いエドガーに、セッツァーの辟易は増したが。
それでも彼は、投げやりな詫びを告げ、その傍らに、腰掛けてやった。
「もう、驚かせるようなことはしないから。落ち着け、少し。怯えなくっていいから。……ほら、エドガー」
本当の処、どうしてやれば良いのかなど、判らないままだったけれど。
セッツァーはそれでも、エドガーが纏ったままでいた、重たそうな装備を一つ一つ剥いで、楽な格好にしてやってから、幼子に言い聞かせる時のように、暫くの間緩く抱き込んで。
その後、己が膝を、彼の枕代わりに明け渡し。
何とか、機嫌を直してくれたらしいエドガーが、無垢な笑みを湛えつつ、うとうとし始めるまで。
何も、怖いことなんてないから、と。
黄金の髪を撫でながら、セッツァーは唯、呟いていた。
「……ねえ、本当に、二人きりにしておいて、平気だと思う?」
「判らないよ、そんなこと…。でも、兄貴のあの様子じゃ……。不時着した後、目、覚ました時だって、俺達の誰も、怖がってたみたいだし……。セッツァーにしか懐かないってんじゃ…どうしようもない」
「だけど。セッツァーの奴だって、記憶がないんだぜ?」
「それでも、奴の方が未だ、まともだ」
「しかし……。あの二人だけでは、危険ではござらぬか?」
「それはそうだけど。エドガーの奴の、あの態度じゃなあ…。──まあ、それでも、恋人同士だったんだから、俺達といるよりは、何か違うんじゃないの?」
「そうね……それに……。あの二人に、早く記憶を取り戻して貰わないと…」
「ああ。誰も、飛空艇が直せない。こんな高地から、徒歩で下山するのは不可能だからな……」
──エドガーが、幸せそうに微睡み始めて、暫くした後。
そっと、寝入った『赤子』の様子を伺い、当分は、起きないだろうと踏んだセッツァーは。
そろそろと、気配を忍ばせて、キャビンを出。
仲間だと云った者達がいるだろうロビーへと向かい。
そこへと続く階段を登る寸前、洩れ聴こえて来た、そんな会話に足を止めた。
「飛空艇のことなんて、あいつにしか判らないし……。セッツァーがoutな時、唯一頼りになる、機械フェチのエドガーも、ああだし……」
「このままじゃ、全員が干上がるよな……。記憶喪失って、どうやったら治るんだよ…」
彼等は、何を語っているのだろう、と。
ぴたり、動きを止めれば。
自分とエドガーが何とかならない限り、飛空艇は誰にも直せず、ここから、飛び立つのも叶わないこと。
そして、それが叶わなければ、何時か、この艇に乗り合わせた者達は全て──。
……それらの事実を語る、『仲間達』の押し殺した声が、再び耳に届いて。
キャビン前の廊下を、そろそろと歩いていた時のように、セッツァーは、再び気配を殺して、元いた部屋へと戻った。
音を立てぬよう気を遣いながら扉を閉め、もうそろそろ、夕暮れも終わる、そんな色を見せ始めた窓の外を見遣り。
それまで吐いて来た溜息とは、若干質の違う息を零して、彼は、ベッドサイドにある、小さなテーブルの上に置かれていたランプを手に取った。
辺りを少し漁れば、マッチケースが直ぐに見つかり、油を吸い上げている、使い掛けの芯に、彼は火を灯す。
日常のことは、意識せずとも体が覚えているんだなと、妙な感心を覚えつつ、彼は。
ランプの火を絞り、ちらり、背中越し、寝入るエドガーを見遣ってから、艇長室の片隅に設えられた、本棚へと歩み寄った。