──不意に現れて、不意に去った、二人の女性にからかわれてから。
体の調子まで崩そうな己を何とか励まし、飛空艇の中をうろつき、腹の満たせそうなものを探し出し。
「何の因果だか……」
ぶつぶつ、口の中で愚痴を零しながら、セッツァーはエドガーの手を引いて、艇長室に戻った。
彼女達の云うように、自分達は、かつては……だったのかも、知れなくとも。
何一つ覚えていない今、そのようなことを云われても…と云う思いは、どうしたって消えないから。
以前はそういう関係だったと云うことを、彼女達にしみじみと『強調』されたが為、何となく、エドガーの方を見るのが『嫌』になってしまって。
彼は、ベッドの上に腰掛けさせたエドガーに背を向け床に座り、又、飛空艇の本に、没頭し始めた。
書かれている内容を、『理解』することは叶ったが、だからと云って、それを元に、この飛空艇を、自分に何とか出来るのかとなれば、又別問題で。
自然、渋い顔を作りながら、彼はページを繰り始める。
「…おい……」
──だが、幾許も読み進まぬ内に、先程のように、ベッドの上では蠢きが沸き起こって、沸き起こったう蠢きは近付いて来て……。
ぴたり、と、懐いて来たから。
セッツァーは、心底の溜息を付いて、ぱたりと本を閉じ、ぐずぐず、振り返った。
「…………や…」
振り向かれ、顔を覗かれて、一瞬、エドガーはムッとした顔を作り、すぐさま、眼差しを、閉じられた本へと落とし。
『言葉』らしきものを呟き、指先に引っ掛けるようにして、本を開いた。
「何だ。又、続きでもやりたいのか?」
故に、仕方なしセッツァーは、応えのない問い掛けを、再開する。
──少し、こんな風に体を寄せられるだけで、どうして、今は見るのも『嫌』だった彼に、構ってしまう自分がいるのか、不思議に思いつつ。
もしこれが、女達の云う通り、昨日までは恋人だったと云う彼に対する、こうなった今でも尚、体や心の何処かには残ったのだろう愛情の名残りだと云うなら。
同性であるとか、身分の差とか、そういった全てを度外視して平然と居られる程。
自分はよっぽど、この彼のことを、愛していたのかも知れない、とも思いつつ。
セッツァーは、子供騙しな『ゲーム』の続きをしようと、エドガーの手を取った。
「…愛してる……か。……判らねえな、俺には…………」
彼の手を取り。
至極簡単な言葉を、綴ってやろうとしたのに。
ふと、見上げて来る紺碧の瞳を見つけた途端、ぽつり、セッツァーは呟いてしまう。
「…ん?」
──────と。
呟きを拾ったエドガーが、それは何だ? と言いたげに、深く、首を傾げた。
「気になるのか? お前でも。本当に、思い出し始めてるのかもな、お前。……次いでに、記憶も取り戻してくれると、有り難いんだが」
不思議そうな顔を作った彼に、セッツァーは、ふっ……と笑う。
「出来るなら、何も彼も、教えてやりたい処だが。こればっかりは、俺にも判らねえ。何なんだろうな、『それ』、は」
笑ったまま、呟いて。
持ち上げかけていた手を降ろし、彼は、遠い目をした。
「…………んっ」
もう少し身を乗り出せば、頬と頬が触れ合う程の近くで、セッツァーが、自分ではなく、『遥か遠い場所』を見遣る眼差しをしたのが、気に入らなかったのだろう。
少々、むっとした顔を作って、エドガーは、つい、と上向けた掌を、セッツァーの眼前に差し出した。
「何だ?」
「………………」
「だから、何だと……。──ああ、もしかして…」
突き付けられた掌に、何かを訴えられて、が、エドガーが訴えるそれが飲み込めず、一瞬、セッツァーは困惑したが、やがて、『それ』を…と云っているのかも知れない、と思い付き。
「綴りだけなら、綴れる。今の俺にもな」
セッツァーは、エドガーの手を取り、一度は降ろした指先を持ち上げて、そこに、文字を綴った。
爪の先で、掻くように。
『愛してる』、と云う文字を。
「んっ…」
文字を綴った指先が、こそばゆかったのか、エドガーは、僅かだけ、腕を引くような素振りを見せたが、くすくす、声を洩らしながら、言葉が綴られるのを、最後まで待ち。
見えない文字の消えた、己が掌を見詰めた後。
彼は、セッツァーの手を取り、たった今、教えられたばかりの言葉を、セッツァーがしたのと同じように、爪先で、綴り始めた。
──…一番最初に綴られたそれは、少しだけ、間違っていた。
次に綴れた時には、間違いの数が減った。
三度目に綴られた時には、辿々しかったけれど、誤りは消え。
何度も、何度も、それを繰り返している内に。
エドガーは流暢に、間違いを犯すことなく、愛してる、と云う文字を、言葉を、綴るようになった。
「くすぐってえから、もう、止めろって……」
そして。
幾度となく繰り返されるそれに、セッツァーが、そんな苦情を洩らしても。
エドガーは、文字を綴る指を、止めようとはせず。
又、幾度となく、愛してる、と指先で『語り』。
……ふとした瞬間、唐突に、それを止め。
じっ……と、ランプの明かりが室内を照らす中、眼前の人の面を見詰めると、両腕を伸ばして、首筋に絡め、膝上に乗り上げ、縋り付いた。
「……おい…」
エドガーの重みを預かりながら、セッツァーは一瞬の、戸惑いを見せたけれど。
抱き着き、猫のように頬を擦り寄せ、日溜まりに良く似た笑みを浮かべられ。
「………………まあ……いい、か……」
苦笑に近い、が、決して苦笑ではない笑みを零すと、彼は。
何も彼もがどうでも良くなった風な心地を覚え。
エドガーを抱き上げ、ベッドへと向かい。
服も脱がぬまま、脱がせぬまま、そこへ横たわって。
縋り付いて離れぬ彼を抱き留めたまま、ランプの明かりを落とし忘れられた、明るい空間にて、もう、眠ってしまおうと決めた。