「酷いと思わないかい?」
──意識を根こそぎ奪い取られるような眠りに落ちて、目覚めた翌朝には、もう、恋人の姿は何処にもなく。
行ってしまったのだ……と、言葉に出来ないまでに寂寥を抱えて、城に戻った、そんな朝を経験した翌日。
忙しいだろうに、何故か今日は休日だ、と云って自室に顔を見せた、弟であり陸軍大尉でもある、マッシュ・レネ・フィガロ二世に、昨日のセッツァーの仕打ちに関する愚痴を、エドガーは零していた。
「…………あー……。まあ……ねえ……。でも…………」
午前のお茶代わりのコーヒーを嗜みながら、机に向かって何やら書状をしたためつつ、溜息を零した兄に、微かな同意を示しながらもマッシュは、気まずそうに言葉を濁す。
「でも?」
弟の声に滲んだ何かに気付いて、エドガーは書状から、顔を上げた。
「あいつの気持ち、判らない訳じゃないんだよねー……。実は、さ。俺も、そのぅ……。行って来ることになったから。……ティナに何て云おうって考えると……」
すれば、マッシュは誤魔化すように、爪先で頬を軽く掻きながら、己も又、南方へ赴くのだと告げた。
「お前、も……?」
恋人に続き、弟までもが、危険地帯に向かうのだと知り、エドガーは、握っていたペンを、紙の上に転がす。
「……うん」
「あの戦争の時でさえ、首都での任務に就いていたのに……。どうして、今度は……」
「仕事だもん。命令とあらば、行かない訳には、ね。『兄貴の弟』って立場の俺が出てけば、何か違うのかも知れないし、さ。……ああ、でも、ほら。セッツァーも云ったかも知れないけど。戦場にって訳じゃないんだしさ。空爆だって、開始されると決まった訳じゃないし。陸軍の仕事なんて、更にそこから先、だしさ。そんな、心配そうな顔しないでよ、兄貴」
見る間に、兄の顔が曇ったのに気付き、マッシュは、軽い雰囲気で、取り成したけれど。
「そう……お前、も…行くのか………」
エドガーは、かたりと、椅子を鳴らして立ち上がり、机の上に置いておいた、恋人から預かったビロードの箱を取り上げて、ソファに座り直すと、箱を覆う布を撫でた。
「あれ? それは?」
「……ああ。一昨日、セッツァーに預かったんだ。持っててくれって。彼の、名誉勲章」
「………………ふーん……」
対面に席を移した兄の手にある、小振りの箱を見遣って、マッシュは首を傾げ。
何故、それがここにあるのか、の理由を知り。
彼は一瞬……ほんの一瞬だけ……気難しそうな表情を、頬に掠めさせた。
「…これが、どうかした?」
弟の面を過ったその色に、エドガーは目敏く気付いて、尋ねたが。
「……ううん。別に」
マッシュは、何でもない、と、唯、首を振った。
「………………マッシュ」
「本当に、何でもないって」
「────マシアス」
けれど、双児の弟がそんな顔をするには、何か理由がある筈だと、兄はきつく問い詰め。
「そのう………さ…」
溜息付き付き、マッシュは、鋭い表情を作った兄へ、真直ぐ、向き直った。
「兄貴も、多少は知ってると思うけど。軍人ってのはさ、これでいて結構……ゲンを担ぐ商売で。色々と、ジンクスって奴、持ってるんだよね。……その……例えば……『万が一の時』、形見の品になるような物を、誰かに預けたりはしない、とか……」
「…どうして」
「普段身に付けてる指輪とか。両親の形見、とか。勲章……とか。そういう物、誰かに預けると、生きて帰って来れないって……。普段と違うことするのは、縁起の良い行いじゃないって……ま、ね…そんな、ジンクスが、ね……あの……戦場には、あったりしたり、しないこともない……んだけど……」
そして、彼は、兄へ。
セッツァーが勲章を預けたという事実には、嫌なジンクスが纏わり付くのだ、……と、そう告げた。
「なら、どうして…………」
──途端。
あの夜、これを手渡す時に、セッツァーが小声で囁いていた、『余り……ゲンのいい話じゃねえんだが……』という一言を、エドガーは思い出し。
ぎゅっと、それを握り締め。
あの人が、そうすることの意味を知らぬ筈はないのに、何故……と、俯いた。
「あ、でも、ほら。戦場にって訳じゃ……ない、し………その……。──大丈夫だよ、兄貴。セッツァーなら、間違いなく無事に帰って来るって。それに、その……ま……出撃は、ないにしてもさ、空軍よりは、陸軍の方が、暇ってば暇だから。俺も、セッツァーの様子、判る限り、気にしとくからさ。兄貴、元気出して」
……こんな憂いを見せられると判っていたら、セッツァーでなくとも、眠っている内に旅立とうと思うかも、と、内心で思いながら、マッシュは、兄を宥めた。
「じゃあ、兄貴……。行って来る、から」
が、ちらり、腕の時計に目をやり、ティナの所に顔を出して、支度をしなきゃならないからと、彼は、肩を落とした兄の姿に、後ろ髪を引かれつつ、立ち上がる。
「気を付けて……。無事に帰って来るんだよ? マッシュ」
そんな弟を、エドガーは、気丈な笑みを浮かべて、見送った。
立ち上がり、玄関まで見送る気力が、湧かぬままに。