再び玄関を開け放ち、大きな廂の下、車寄せに立ち。
彼は、扉の鍵を見遣った。
館同様、それは随分と古い作りで、元々から壊れている風に見えないこともないが……無理矢理こじ開けたような、真新しい傷も窺え。
「空家だと思って、開けてしまったのかな……」
主は困惑と苦笑を交互に浮かべて、廂の向こうの、今だ雨を落とし続ける、暗い暗い空を見上げた。
……もしかしたら、この館に住む者が、いるのかも知れないのに。
主の為に、雷雨を凌ぐ場所をと、きっと従者はそう思ったのだろうが、この館の鍵を、壊してしまった。
──止む気配のない雨。
一晩も、ニ晩も、降りしきり続けそうなそれ。
早く、我が家へと戻りたいのに、街道は見失い、森に彷徨い込み。
雨は何時までこの場所に、己達を閉じ込めようとしているのか判らない。
だと云うのに、もしも、この館に何者かが住まうなら、従者の不始末を詫びつつ、それでも、雨を凌ぐ場所としてここに留まる許しを請わなければならない。
…………それを思うと、少々居心地が悪いな、と。
雨空を見上げながら、彼は考えた。
故に、鬱陶しい天気そのもののように、気分も又、滅入ってしまって、軽く首を振りながら彼は、辺りに視線をくべる。
すれば、車寄せの付近には、激しい雨に打たれながらも咲き誇る、強く、美しい薔薇達が見て取れ。
ほんの少し、救われた気持ちになって、彼は、その中の一輪へと、一目で貴族と判る、綺麗でほっそりとした手を伸ばした。
大輪の、深紅の薔薇は手折られ、幾つもの雨粒を花弁に乗せたまま、彼の手に収まった。
軽く腕を振って、花弁の雨露を飛ばそうとし……。
…ふっ………と。
辺りに散った雨露の、その雫の向こうに彼は、影を見た。
薔薇の茂みの向こうに現れた影は、徐々に濃くなり。
微かに小首を傾げて、それを見続ける彼の、紺碧の瞳の中で、影は人の形を成した。
「…………誰だ」
じっと見遣る、蒼の瞳の中で、人となった影は、丸きり抑揚のない、低い低い声で、囁くように、彼に尋ねた。
「あ……申し訳ない、その……この館の方、だろうか? 私──我々は、通りすがりの者で…、この酷い雷雨を凌がせては貰えないかと、こちら、を……。実は、道に迷ってしまって……」
長い銀の髪と、纏った黒いコートから、水滴を滴らせて、冷たい冷たい、何処を見ているのかすら判らない、感情の色浮かばぬ紫紺の瞳で、射抜いて来た相手に、彼は、慌てて事情を告げる。
「………………」
彼の弁を受けて男は、聞き取れぬ程小さな声で何かを呟くと、すっと、濡れた髪を掻き上げようともせず、玄関の扉に近付き、壊れた鍵と、彼の手の中の薔薇を見比べ。
バン、と扉を開け放った。
「あ、の……」
ばさっと、濡れて重たくなったコートの裾を翻し、その男が中に入ってしまったから、残された彼は、焦って後を追い掛けたが。
「…お前達は」
館の中に誰かいないかとの探索を終え、戻って来ていた従者達を一瞥すると男は、彼を振り返って鋭く睨んで来た。
「──お前達は、雨宿りを請いに来た先で、鍵を壊し、勝手に薔薇を手折るのか?」
「…………申し訳ない。その…空家なのだと誤解してしまって……」
だから彼は、言い訳を告げたけれど。
相手は唯、無言で首を振った。
「無礼は、詫びる。すまないことをしてしまったのだから……。許して貰える…だろうか……。雨宿りを請う立場で、勝手な言い種だとは思うのだが……」
「本当に勝手な言い種だな。許して貰えるか? 例えば、鍵を壊した奴の命を差し出さなければ許さない、と云ったらどうするんだ? ……どうやら、お前は貴族のようだ。鍵を壊したのは、お前ではないんだろう? 尤も、薔薇を手折ったのはお前だが」
許して欲しいと云う詫びすらも、男は無言で退け。
「そんな馬鹿なこと……」
「馬鹿? ……ほう。なら、その馬鹿なことを、試してやる」
雨を吸ったコートを脱ぎ捨て、エントランスの壁に飾られていた剣を抜き。
「誰だ?」
その切っ先を従者達へ向け、ふらふらと傾けながら云った。
「無礼は詫びるっ。だから、そのような戯れ言は、止めては貰えないだろうか」
相変わらず、男の紫紺の瞳には、感情の色が浮かばなかったけれど、言い出したこと、やり始めたことが、冗談でも八つ当たりでもないことだけは、彼も感じ、男と従者達の間に立ちはだかった。