「エドガー様、お止め下さいっ! ……参りましょうっ、このような場所で、雨を凌ぐくらいなら、この森を抜けてしまった方がマシですっ」
 自分達を庇う主の腕へ、従者が叫んだ。
「他人の家で、好き勝手をしたのはそっちだ」
 何処までも抑揚なく、男は云い。
「ああ、別に薔薇を手折った、『エドガー様』の命でも俺は構わないが」
 眼前の彼──エドガー様と呼ばれた彼の、喉元へと、剣の切っ先を突き付けた。
「ふざけるなっ!」
 仕える主へと、凶器──否、それは『狂気』、だったのかも知れない──を向けられたことに、従者達は憤り、腰の剣を抜き、男へと挑んだ。
「…フン……」
 ──紫紺の瞳をした男は。
 従者達の剣が抜かれた刹那、鼻先でその姿を嗤い、エドガーの腕を掴むとエントランスの床へと引き倒して……が、それ以上は何もしようとはせず。
「エドガー様っ!!」
 繰り出された剣の断ち筋を、その身で受けた。
 ……彼へと届いた幾つもの切っ先は、コートの下に身に付けられていた、白いシャツの胸元を切り裂き。
 しかし、更にその下の肌には、毛筋程の傷も付けることは叶わず。
 従者達は怯み、固唾を飲んでそれを見守っていた女官達は、悲鳴を上げる。
「迷いの森の話を聴いたことがないか?」
 フン……と、鼻先での嗤いを、男はもう一度浮かべ。
「…あっ……」
 床に引き倒したエドガーの、長い金の纏め髪を乱暴に掴んで、無理矢理、身をもたげさせると。
「迷い込んだら二度と出られぬ森の話。……化け物が住んでるって噂の。……知ってるだろう? ──お前達が迷い込んだここが、その森だ。……と云うことは。そんな場所にいる俺が、化け物でもおかしくはないだろう……?」
 何処までも、抑揚の感じられぬ例の声で、曝け出されたエドガーの白い喉元へともう一度、切っ先を突き付けた。
 刃の頂点が、彼の肌に触れ、喉元には、小さな赤い球が浮き上がる。
「エドガーさ──」
「──逃げるんだ、早くっっ!」
 そのさまに、一度は怯んだ従者達は、剣の柄を握り直したけれど、主の叫びは、それを遮った。
「ふーん…………」
 エドガーの叫びに、男は、意外そうな顔を作った。
「────……もしも、だ。お前がこの化け物屋敷に、一人残れるなら。こいつらは見逃してやると云ったら、どうする?」
「……彼等を傷付けることなく?」
 今だ、強く引かれている髪の痛みに耐えながら、真摯な色の乗った瞳で、エドガーは尋ねた。
 ──回答の代わりに、男は掴んでいた髪を離し。
「早く。今の内に」
 エドガーは立ち上がって、従者達を促した。
「し…しかし…………」
 勿論、従者達は主の言葉に躊躇いを見せたけれど。
「彼は、私に残れと云っているんだ。そう云う以上、命を奪う気はないんだろう。私のことなら、心配しなくてもいい。その内、きっと帰るから。……早く」
 優しく、だが異議を退けるトーンで彼に告げられ。
 視線を流して来た男の、紫紺の瞳に怯え。
 主に付き従っていた者達は全て、土砂降りの雨の中、館から飛び出して行った。
「……そういうモンだろうな…」
 逃げて行った従者や女官達の背中をじっと見送り、男が呟いた。
「何がだ?」
 開け放たれたままの玄関の向こう、雨に煙る景色の中に、供の姿が消えるのを、エドガーも又送って、男を振り返り。
「…私に、何を望む?」
 少しばかり挑戦的に、彼は尋ねる。
「……貴族のお前に、何が出来るってんだ? 俺は唯。『人の姿』が見たかっただけだ」
 すれば男はそう答え。
 ヒュッと、天井の高いエントランス全体に響き渡る程強く、剣を振った。
 見たかったものは、もう見たのだから。
 お前にも、お前の命にも、用などない、と云わんばかりに。
「確かに私は貴族で……出来ることなど何もない……。出来ることは精々…そうだな……時計のような小さなものを、いじったり、直したり……。趣味だから」
 だが、ここで大人しく殺されるつもりはないものの、斬り付けても死なぬ相手から逃れる術は、簡単には浮かばず。
 エドガーは、言葉を交わして時間を稼いでみようとした。
 …すると。
「時計?」
 彼の時間稼ぎは、思惑以上の力を持っていたのか、男に問い掛けを返させ、あまつさえ、思案までも促し。
 暫し考え込んだ後、付いて来いと、男に顎を杓らせもしたから。
 エドガーは男に付き従い、エントランスから二階へと伸びる、暗い階段を昇るまでに至った。
「……時計が、どうかしたと?」
 暗くて長い階段を昇り、やはり、暗くて長い廊下を歩く途中、そうやって、何度か男に尋ねたが、相手は一言も口を聴かず。 
 廊下の突き当たりに位置する部屋の扉を開き、さっさと中へ入ると燭台に火を灯して。
 大して広くもない部屋に、ポツン……とあった、小さなテーブルの上から、懐中時計を取り上げ。
「もう、随分と前に、止まったままの時計だ。……それを直すことが出来たら、出してやるよ、この館から」
 ポン、とエドガーへと時計を放り投げると、男は踵を返した。
「え、あの……?」
 唐突な申し出と、相手そのものに興味をなくしたような男の態度に、エドガーは慌ててその後を追った。
 足早に廊下を歩いて行く男を追い。
「道具は多分、屋敷の何処かにある。勝手に探せ。何処でも好きな場所を使えばいい」
「それは……その……構わないのだけれども……」
「なら、いいだろ」
「その…あの……。……ああ、せめて、名前の一つも教えて貰えなければ、私も、やり辛いんだが…………」
 エドガーは何度か声を掛けたけれど、男の態度は何処までも冷たく。
「……セッツァー」
「それが、君の名前?」
「…………」
 名前を聞き出したのを最後に、ぷつりと、紫紺の瞳をした男──セッツァーは黙り込み。
 階段の途中で手すりを越え、エントランスへと飛び下り。
 カッと……甲高い足音だけを響かせ、館の何処かへと消えた。

  

   

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