この森と、この館に迷い込んだあの日から。
数日が過ぎても、酷い雨は止まなかった。
世界の全てを沈めてしまいそうな勢いで降り続く雨を、館の一室の窓辺より見上げ、エドガーは、幾つかの理由で以て、溜息を零した。
あの後、何処を目指したら抜けられるかも判らないこの森から、供の者達は抜け出られたのだろうか、とか。
自らも、何とかしてこの館から逃げ出したいけれど、取り敢えず、命を取られずに済んでいる内は、ここで大人しく、雨の止むのを待とうか、とか。
そんなことを考えると、気分が重たくなり。
だから彼は、溜息を零していた。
──何を考え、何を思い、あのセッツァーと云う不思議な男が、懐中時計を直せたら、と云ったのかは判らないが。
そんなことで解放されるなら、と、あの後エドガーは、屋敷中を探し歩いて時計の修理に必要な道具を見つけ出し、そのデザインや構造から鑑みるに、100年近く前に作られたのではないかと思しきそれを、とっとと直してしまおうとしたのだけれど。
機械いじりが趣味で、懐中時計の一つや二つ、簡単に直せる筈の彼の手に掛かっても、時計はぴたりと、時を止めたままだった。
故に、数日が経ったその日も、彼は屋敷の片隅で、時計を分解しては組み立てる、と云うそれを繰り返したが。
結果に変化は生まれなかった。
それも又、彼に溜息を零させる原因の一つで。
そして、彼に溜息を零させる最大の理由は、セッツァーと云う、この館の主、そのものにあった。
この雨の中、逃げ出したとしても、迷いの森と名高いここから、抜け出すことは叶わないと知っているのか、セッツァーはこちらを構いもしない。
何を云う訳でもないし、見張りに来る訳でもないし。
その思惑を訝しんで、大抵の時、セッツァーが時を過ごしている居間の片隅に、エドガーから様子を窺いに行っても、あれこれ話し掛けても、無視、無言を、貫き通されたから。
「どう云うつもりなのやら…………」
エドガーは唯々、溜息を零した。
──あの刹那、彼が云った、『人の姿が見たかっただけだ』と云う言葉の意味が、何を指すのかは判らないし、どうして、この手強い懐中時計を直せと云ったのかも窺い知れぬことだが。
そう申し渡して来た以上、彼には何らかの思いか思惑がある筈で、こちらに望むことも、あるのだろうに。
セッツァーと云う男の取る態度は、それらに相反していたから。
エドガーには、彼と云う男が、全く理解出来なかった。
例え彼が、斬られても死なぬ『化け物』なのだとしても。
一応は、人であるのだろうに。
彼の何一つ理解し得ないことは、納得が行かなくて。
少し、意地を張っているような気が、自身でもするが。
この森に迷い込んでから数日が経った今。
溜息を零しつつ、何とかして彼を喋らせてみようと、そんなことさえエドガーは、考えていた。
──更に、それから数日が過ぎた。
雨は未だ止まない。
大地へと降り注ぐ強さを時折変えつつ、がそれでも、雨の止む気配はない、その日の朝。
勝手にしろと云われたから、勝手にさせて貰うと、自ら選んだ寝室から起き出し、エドガーは階下へと降りた。
どうも、セッツァーは地上階で生活しているようで、極力、彼から離れた部屋で休みたいと、そんな風に選んだ部屋を後にし、居間を覗いてみれば。
長椅子に横たわったままの、セッツァーの寝姿が、紺碧の瞳に映った。
……大抵の場合、この部屋でぼんやりしているらしい彼は、やはり、朝は大抵、このざまで。
探索の結果、この館の地下には唸る程あると知った酒を、セッツァーは夜な夜な持ち出し、飲んだくれているらしい。
朝、こうして眠る彼の前にあるテーブルには必ず、空になった酒の瓶と、グラスがあった。
厨房には、当座を凌ぐだけの食料が詰まっていたから、家事労働を一切知らないエドガーでも、何とかかんとか、自分一人が食べるくらいのことをするには、困らなかったから、最初の内、彼は、一人気侭に食事を済ませていたけれど。
意地っ張りが高じて、己を無視するセッツァーの口を開かせてみようと思った直後、彼が、そうやって夜を過ごしていることと、殆ど食べ物を口にしていないことに気付いたから。
このニ、三日は、テーブルの上の空き瓶を、ガン、と、グラスと一緒にダストボックスに放り投げ、二人分の『朝食』を──何も出来ないエドガーが、何とか支度した『代物』を、朝食と呼ぶなら、の話だが──そこに並べ。
無理矢理にセッツァーを叩き起こして、
「……食事」
と、耳元で怒鳴ることが、エドガーの朝の始まりになっていた。
尤も、そうしてみても、セッツァーが口を開くことはなく、こちらなど、存在していないように振る舞われたし、不出来なりにも整えた朝食に、手が付けられることはなかったけれど。
「あの時計……中々直らないのだけれども……。壊れたきっかけとか、君は覚えていないかい?」
とか。
「お酒ばっかり飲んでいないで。少しは何か食べないと、良くないと思うが」
とか。
「正直、君が何を考えているのか、私には理解出来ないんだけれども」
とか。
答えが戻らぬのを承知で、エドガーは、冷たい眼差しだけを寄越して来る相手に、語り掛け続けた。