「あの、ね……」
──もう、時計を直さなくてもいい。
あれは、直りはしないから。
……そう云われ、その部屋から去ってしまったセッツァーの後を、エドガーは追い掛け。
何時も通り、居間の片隅にて、気侭なことを始めた彼の、傍らに立った。
「…ん?」
何かを言い淀んだあの刹那のように、セッツァーは、一目見てしまったら、二度と忘れぬだろう紫紺の瞳を、エドガーの前に晒そうとはしなかったけれど。
それでも、無視をすることだけはなかったから。
「聴いても…いい、かな……」
ほっと、安堵の息を吐き、少しばかり俯き加減で、彼は語り出した。
「何を?」
「どうして、あの時計……直さなくって、いいって……君は……。──直らないって、どう云う意味なんだい? あの時計は別に、部品が欠損してるとか、そんなことは見受けられなかったよ。直らない筈がない。なのに、どうして…?」
……唯、どうしてなのかの理由が判らないだけで。
理屈の上から云えば、あの懐中時計が直らぬ筈などない。
あの時計は、何処も『壊れてなどいない』。
何時か、必ず、あれは時を刻み始める。
なのに、何故、あの時計が時を進めぬ理由を知っているかのように、そんな風に云うのだ、と。
それを問うことへの、興味半分、恐怖半分、の上目遣いを、エドガーはセッツァーに向ける。
「お前……本当に、忘れてるだろう?」
…すれば。
セッツァーは、哀しそうに、くすくすと、笑い出し。
「お前がここに迷い込んだ時のこと、よーく思い出してみな。……慣れちまったから、思い出すことも少ないんだろうが。俺は『何』だった? ほら。思い出してみな。俺は、人だったか? 俺は、化け物だったか? それくらい、簡単に答えが出るだろう?」
お前の供に斬り付けられても、傷一つ付かなかったあの刹那を、思い出せ、と……。
「それ、は……。でも……だからって……」
「あのな。俺は、少なくとも、お前の知る『人』とは違ったろう? 『人』とは違う生き物が持っていた物を、どうして常識で計れる? あれはな。壊れてるんじゃない。動かないんだ。どうやっても、決して直らない。それを承知で、直してみせろと、俺は云ったんだ。……判ったか? 判ったなら……雨が止むことがあったら……もう、何処へなりとも、勝手に出てけ」
──確かに、凶器を突き付けられても命を落とさなかった彼は。
人にあらざる生き物かも知れない。
けれど、と。
エドガーは言い淀めば。
言葉に被さる低い忍び笑いを少しだけ大きくして、不可能なことを言い渡したのだと、セッツァーは告白した。
「どうして? 直らないのを知っていて、どうして……」
告白に、エドガーはそれでも、食い下がったけれど。
「お前には関係ない」
「……セッツァー…」
「雨、が。……後は雨が、止めばいいだけ、なんだから………」
それ以上を告げることなく、彼は、紫紺の瞳を窓へと向けた。
今日も、雨の降りしきる、空を写し出す窓。
「……納得出来ない」
が、もう、話は終いだと、そんな態度を彼に取られても。
エドガーは諦めを覚えなかった。
「知ってることがあるんだったら、何も彼も、教えて欲しい。あの日のように、私を殺すつもりなんて、君の中からはとっくの昔に消えていたんだろう? なのに黙って、私をここに置いてくれて、何時でも好きに出てけって……。──私の存在は、少なくとも、君にとって、不快なそれではないのだろう…?」
床に膝を付いて、窓辺を見遣ってしまった彼の肩を揺すって。
「…おい……」
「一月以上も、私は君を見て来たんだ。そりゃ、最初の内君は、意地が悪かったけれど……それでも少しずつ色んなこと、私と君は、語り合って……。……私はこれで結構、君と一緒にいるのが……その…………──。だから……だから…、そんなに哀しそうに笑って、私を突き放すのは、もうっ……」
セッツァーの左肩に、重ねた両手を乗せ、エドガーは、そこへと面を伏せてしまった。
「お前……」
彼のそんな態度が、まるで、友人とか、家族とか、そんな存在を心配をしてくれている風なそれに感じられて、セッツァーは戸惑いの声を洩らした。
どうしようか、この両手を振り払おうか、と、ぼんやりと考え。
「エド……ガ……。……エドガー?」
初めて、はっきりと、その人の名を口にし。
「……頼みが、ある……んだが……」
「…何?」
「その、な……。その…………。触れても、いい……か……?」
伏せていた顔を上げた彼へ向け、その日、朝、結局は告げなかったそれを、恐る恐る、セッツァーは望んだ。
「構わない、けど……触れる……って?」
どういう意味で、それを望まれているのか、その真意が判らず、エドガーは不思議そうな顔をし。
が、唯『触れること』を、そんなに躊躇う必要はないだろう? と、頷きを返した。
同意を得られてセッツァーは、一瞬だけ、俯き。
蜻蛉(かげろう)に触れるように、そろそろと腕を持ち上げ、彼へと伸ばし。
様々なものが、深く絡み合う眼差しを向けながら、ツ……と指先で、頬を撫でると。
そろりと、眼前の躰を抱き締めた。
「…セッツァー?」
彼の望んだ『触れる』とは、抱き締めることだったと知り。
エドガーは一瞬、困惑の声を洩らしたが。
伸ばされ、抱き締めてきた腕は、綿菓子を包むに似た力加減から徐々に、強さを増して行ったから。
「…………セッツァー」
どうして、この刹那、そんな思いを抱いたのか、自身にも判らぬまま、エドガーは彼の背を、己が腕で抱き返した。
──随分と長い間。
セッツァーは、エドガーを抱き締め続けていた。
儚かった力は終いに、とてもたくましくなって、床に膝付いていた筈のエドガーの躰を、抱いた腕で長椅子へと引き上げ。
セッツァーは何時までも、隣に座らせた彼を、抱き続けていた。
触れてもいいか、その望みを叶え、あまつさえ、抱き返して来てくれたその人の腕が、背(せな)で微かに蠢く度に、ゆっくりとした吐息を吐きながら。
「ねえ……セッツァー? どうしてだろうね……。外が…明るくなってきた……。雨が…止んでしまいそうだ……」
彼の胸元に、頬を預けていたエドガーが、ふと、時うつろいだ窓の外を見遣って、雨の上がる兆しに気付くまで。
「そう、か…………」
それまでの日々、一度足りとも止む気配を窺わせなかった雨が、急に勢いを衰えさせて来たことを告げられ、漸くセッツァーは、エドガーを抱く腕を解いた。
「有り難う……」
解放したエドガーの両肩をそっと包み、彼は感謝を音にする。
「約束……だ。好きな所に……。雨が、止んだら」
「……有り難うと、面と向かって云われるようなことかな。私は唯、君に抱き締められていただけだ。それよりも、セッツァー。何故、雨が?」
そうされる程のことじゃないと、感謝と共に向けられた笑みに、エドガーはやはり笑みを返した。
「終わったから。……多分、何も彼もが、終わったから。だから、雨は止む。直せないと云ったあの時計も……ほら、な……」
何故、降り続いた雨が止むのだと、その理由を知るのなら語って欲しいと、そう求めるエドガーに、セッツァーは。
とても嬉しそうに、そしてとても哀しそうに、居間のテーブルの上に置かれたままだった、あの懐中時計を取り上げた。
取り上げられ、目の前に下げられたそれは、間違いなく、止まっていた時を刻み始めていることを示して、エドガーは目を見張る。
不思議だった。
どうやっても直らなかった時計が、セッツァー自身も、どうやっても、決して直らない、と云った時計が、何故動き出したのか、判らなかった。
だから、彼は。
「…………どうして?」
セッツァーに、尋ねた。
何故だ、と。
「百年近く前の、些細な出来事に、決着が付いたからだ。だから、雨は止んで、こいつは動き出して、何も彼もが、終わるんだ……」
──すれば。
つまらない出来事が一つ、終わりを見たんだ……と。
セッツァーは云った。