「でも。雨は止んで。時計は、動き出した…………」
全てが終わる、と云ったセッツァーが、静かに話し出したことを聴き終え。
エドガーは時計と、窓の外にある空を、見比べた。
「そんな、些細な出来事があってから、本当に、何年が過ぎたのか、俺には判らない。そんな話、あり得る訳がないと、降り続ける雨の中、森から出てみようと何度も足掻いたけれど、幾ら彷徨ってみても、辿り着くのはここだけだった。永遠に巡る、同じ一日の中から、俺は本当に抜け出せないのだと何時しか、悟った」
両手で、懐中時計を包むように持つエドガーへ、セッツァーは未だ、話を続ける。
「なのに……お前達のように、時折、外界からここへやって来る者がいて。最初の内はその都度、そんな連中の誰か一人を愛せて、誰か一人が俺に靡いてくれれば……ってな、色々『試して』みたりもしたが。それは叶わぬ夢で。傷付いても死なない俺を、化け物だと怯え、止まない雨の中、森の中へ消えて行った。そんな連中が、今も尚、生きてるんだか死んでるんだか、知らない。……俺は、と云えば。…………誰かを愛する自信は、あったんだ……。俺は唯……怖かっただけで……それだけで……あの女に手が伸ばせなかっただけだと……そう信じてたから……」
「でも……そうじゃなかった……?」
語り続けるセッツァーの、紫紺の瞳を、エドガーは捕えた。
「判らない……。本当の処は、判らない……。でも……誰かを愛そうとしているつもりで……そうしているつもりだったのに……。俺には結局、判らなかった。この館に捕われてから、誰かを愛すると云うことが、判らなくなった。理解出来なくなった。俺の中の全ては凍り付いて、感情なんて、揺らがなくなってた。どうにかしようとしてみても……俺には何も、出来なかった……」
「…そう……」
「でも、それでも、負の感情だけは動いて、段々、段々、俺は俺に嫌気がさして。時折迷い込んで来る人間達に、諦めを覚え。何時しか……何も彼も諦めて、繰り返される同じ一日を、やり過ごすしかないんじゃないかって……。そう、信じて……。だから……お前達が迷い込んで来た時、ああ、又雑音が……そう思った……」
揺らぐことなく見詰めて来る、エドガーの瞳の紺碧に、紫紺の色に乗せた、哀しみを、セッツァーは向ける。
「うるさい雑音なんざ、退屈凌ぎ以下のことでしかないと思った。あの女の掛けた、永遠に巡る同じ一日の中に時折生じる綻びに、うっかり迷い込んで来たお前達を…俺は見るのも嫌だった。鍵のことも、薔薇のことも、どうでも良かった。追い払うにしろ、殺してしまうにしろ、些細な失態に難癖を付けて、それで少しの『慰み』が得られれば、良かった……。なのに……お前は……」
「……え? わた……し……?」
「ああ。……お前は……今まで、俺の知っていた人間達の誰とも違った。あの女のような、世間知らずの貴族の癖に、どうしてあんな風に振る舞えるのか、判らなかった。余計腹が立って……殺してしまおうとしたら、時計が…なんて口にしたから。その時計を与えて、困らせ続けたら、結局お前も他の人間達と変わらない姿を晒すだろうと……そう……思って……。お前が…他の奴等と同じなら……本当に本当の諦めも付く、そんな気がして……。なのにエドガー、お前は。本当に……世間知らずで…………──」
──隣に座るエドガーを、哀しく見詰めながら。
彼は泣きそうな声を、絞り出した。
「セッツァ…?」
「どうしてそうなったのか、それも俺には判らない。唯……眠ったお前を見てて……ふと…柔らかい気分になれて…誰かに想いを傾けるってことは、こういうことだったような気がすると思えた……。……触れたくなった。確かめたくなった。愛するってのは、こういうことなのか…と…。でも、もしも。……もしも、お前が俺のことを、どんな意味でだったとしても、ひとかけらでも、想ってくれているのだとしたら、巡る一日は終わって、呪いの象徴だった時計は動き出して、雨は上がり。お前は、元居た場所に帰るんだろう、そう考えたら……触れられなくなって……。なのに……止まった時間よりも先に動き出した、俺の中の何かは、もう、止まらなくて……っ……」
………今にも、泣き出してしまいそうな声で。
最後までを告げ終え、セッツァーは。
彼等がそうしている間にも、空が、雲を動かし雨足を弱めているにも拘らず、動こうとしないエドガーへ、もう一度だけ……と囁きながら、腕を伸ばした。
────その日の午後、雨は止み。
空は晴れて。
永遠に巡る筈だった同じ一日が、音もなく、その時を放ったのに。
エドガーは、古めかしい館を、立ち去ろうとはしなかった。
最初は、助かる為に。
次は、何となく張ってしまった意地の為に。
その次は、覚えた好奇心に、突き動かされたが為に。
彼は、巡る日、巡る日、セッツァーと過ごして来た。
けれど、もう。
止まってしまったと云う、『取り巻く時間』の中に居たのだろう己は、何時でも、好きな時に、元居た場所に帰れるのだと、判ってはいたが。
どうしても、セッツァーの傍を離れる気には、なれなかった。
如何なる意味に於いて、彼が自分を愛してくれたのかは、判らないけれど。
止まぬ筈の雨が止み、動かぬ筈の時計が動いたと云うなら。
あの呪いの言葉通り、セッツァーは『誰か』を愛し、『誰か』はセッツァーを愛したことになる。
自分が、彼のことを、真実どう想っているのかの確証などないけれど。
その意味合いは別にして、彼を『好き』だ、と云うそれだけには、間違いがないと思う、から……と。
『好き』、その言葉の意味を確かめる為にも、エドガーは、太陽が降り注ぐようになったその屋敷に、留まることを決めた。
…………けれど。