気が付けば、窓の外はもう、夜の闇に支配されていた。
 ……遠い場所、に。
 今までのそれとは違う冷たさを持っているだろう、凍える別世界に捕われてしまったセッツァーを。
 ──触れても良いか、と。
 恐る恐る尋ねられた、あの朝のように、居間の長椅子に、二人並んで腰掛け。
「ねえ……セッツァー…?」
 己が、支えるように抱き締めていることに、漸く気付いたエドガーは、ぽつりぽつり、触れた人へと、話し掛けた。
 応えがないのを承知で。
「夜…になってしまった……。おかしいね……。人間って、こういう時にも、お腹が空いたかも……なんて……考えるんだね……。──君は、何か食べたいとは、思わないかい……? 私は…料理なんて、上手くないけど。ここに居た間に、少しは何とか…覚えたから……。良ければ…何か、作るけど。……美味しいか不味いか、なんて、判らないけど、でも……毎朝の、あの不出来な朝餉を、君、食べてくれたから……だいじょ…うぶ……かな……」
 ……小さな声で。
 泣き出しそうになるのを、堪えながら。
 何度そうしてやっても、頬へと落ちて来る長い銀色の房を、掻き上げてやりながら。
 …エドガーは。
「最初は君のこと…腹立たしくて。その内、意地もあって、喋らせてみようって……思って…。気が付いたら、君に興味を覚えてた……。気になって、仕方なかった…。出会った時は、あんなだった癖に。話し出してみれば、結構、君は優しくって。作った私でさえ、不味いと思うことばかりだった食事…嫌な顔一つしないで……。美味しいとも、不味いとも、云ってはくれなかったけれどね……」
 語り続けることを止めず、今だ、テーブルの上に置かれたままだった、あの懐中時計を取り上げ。
「愛してるのかな……。私は……『そういう意味』で、君を愛してるのかな……。馬鹿みたいだ……。友人として、君を愛しても良かったのに。君も私も…男なのにね。……なのに……『そういう意味』で、君を愛して……。だけどっ……。だけど、こんな風になってから、それに思い当たるなんてっ…………」
 永遠に同じ時を繰り返すだけのあの日々に戻りたい、と、銀色のそれに頬を押し当て、彼は泣き出した。
「どうして? どうして……。愛してくれたなら……私が君を愛してるんだと知っていたなら……諦める必要なんて、なかったのにっ……。私は、諦めたくなんかない……。気付いたばかりの愛も恋も、君もっ。諦めたくなんか……──」
 ────一片手の掌に、呪いの象徴だった時計を握り締め。
 エドガーはセッツァーの背を、掻き抱いた。
 抱擁が返されることはなく……流れる涙は、愛しい人の肩を濡らすだけで。
 諦めたくなんかないのに、手放すつもりなんかないのに、諦めなければならない時も、手を放さなければならない刹那も、直ぐそこに見え。
 もう二度と、彼が戻らぬならば…………と。
 彼を殺して自らも死のうかと、エドガーは思い詰めたが。
「帰りたい……。あの日に…っ。止まない雨が上がったあの日にっ……」
 確かに生きている愛しい人の命を、彼に断てる筈もなく。

  

   

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