後ろ脚を罠に強く挟まれた所為で、夥しく血を流し、千切れそうになってしまっている脚首が、到底、正視出来ぬ程痛々しくて。
「…………何で? どうして……? 何故、アイラが……? 何故こんな処に、狩人達が使うような、罠が……?」
 声を詰まらせ、振るわせ、エドガーはその場に、跪いた。
「……押さえてろ。いいな? 俺がそれをこじ開けたら、引き抜いてやれよ」
「あ、ああ……」
 今にも泣き出しそうな声で呟き、どうしていいか判らぬ風にしている恋人を、ちらりと見遣り。傷付いた、アイラを見遣り。
 セッツァーはそう言い、エドガーが頷くのを待って、そっと、脚を挟んでいる、刺の付いた金属の板をこじ開け、慌てた素振りで、恋人がアイラを救ったのを確かめてから、至極忌々しそうに、放り投げるようにして、手にしたそれを、遠くへ捨てた。
 ……投げ捨てられたそれは、どうしようもなく耳障りな金属音を立て、草木の向こう側へと転がり。
「誰か呼んで来てやるから、待ってろ」
 耳障りなその音に、深く眉間に皺を寄せながら彼は、着込んでいた上衣を脱いで、エドガーに抱かれているアイラを包んでやり、もう一度、エドガーの膝へと戻してそのまま、回廊の向こうへ消えた。
 

 

 人と猫では……と思案気に呟きながらも、セッツァーに引き立てられ、中庭へとやって来たエドガーの侍医は、唯々不安そうな顔をして、恋人の上衣に包んだアイラを抱きかかえ、踞っていたエドガーより猫を受け取り、城内へと運び込んで、出来る限りのことはしてくれたが。
 …………それより半月程、エドガーの祈りも虚しく、罠に負わされた傷が元で、アイラはこの世を去ってしまった。
 ────アイラがそんなことになってしまった原因となった、例の罠は、大変皮肉なことだが、一寸した誤解と、『些細な良心』を元に、あの中庭に仕掛けられたのだと、その出来事の翌日、エドガーとセッツァーは知った。
 ……エドガーが、城の中庭を愛していること、愛しているそこで、愛している楽器を奏でるのが好きなこと、それはもう、随分と長い間変わらぬ事実だから、城内の者全て、それを弁えていた。
 けれど彼が、迷い込んで来た野良猫に、アイラと名を付け、可愛がり、己自身で飼おうと考えていたことは、城内全てに、浸透しきってはいなかった。
 なので。
 国王陛下の愛する庭に、動物とは言え迷い込んで来て、気侭に花壇に踏み込み我が物顔で歩き回って、粗相までしていく猫に、陛下の愛されている庭や花壇が痛められては、と。
 エドガーがその猫を可愛がっていることを知らず、且つ、彼の慰めの一つである庭のことを考えた者達が、簡単には捕まってくれない野良猫を『退治』、若しくは『始末』する為に行ったのだ、と。
 あの日、あそこに、狩人達が用いるような罠が仕掛けられていた理由を、二人は知った。
 故に、アイラの命を奪う切っ掛けになったあの罠も、元を辿ってしまえば『己の為』だと聞かされてしまったエドガーは、誰にも何も、言うことが出来なくなってしまって。
 あの日より、只、泣き濡れる日々を送った。
 そして、恋人がそんな風になってしまったから、色々と、都合も予定もあったろうに、暫くの間だけ、との口上を掲げて、セッツァーは、誰にも見えない所で一人嘆き続けるエドガーの為に、城に留まり。
 …………半月が過ぎて。
 二人して、看病に励んだ甲斐もなく、アイラが逝ってしまって。
 真夜中、己達が見守る前で、瞼を閉じることもなく去り、冷たくなっていくアイラを見遣りながら、身も世もなく、エドガーはセッツァーに縋りつつ悲しみに暮れ、セッツァーは、崩れるように泣き続ける恋人を、抱き締めてやるしか、術がなかった。
 

 

 でも、それでも。
 どれだけ時間が流れて、どれだけ涙が溢れ続ければ……、とすら思えた刻も過ぎて、止まることを知らなかった涙も涸れ始めて。
「……もう、泣くな。お前に泣かれると、どうしたらいいか、判らなくなる…………」
 この半月、アイラの寝床だった籐籠の前にしゃがみ込み、動かないエドガーを慰めるように、セッツァーは、ぽん、とその頭(こうべ)を撫でた。
「…………解ってるよ。……解ってるんだけどね……。失ってしまった命は、戻らない。逝ってしまった存在は、二度と還っては来ない、って……。解っては、いるんだけど…………」
 すればエドガーは、涙を飲み込みながら、ぽつぽつ、己に言い聞かせるように口を開いた。
「泣くのが悪いとは言わない、思わない。悼むことも、又、な……。でも……お前も、この猫も、余りにも遣る瀬ないから……。その、な……」
「……うん。解ってるつもり……だよ? 君の気持ちも、解ってはいるつもり……。でも……でも、アイラに申し訳なくて、どうしようもなくて……」
「…………気持ちは判るが……。でもエドガー……──」
「──あのね、セッツァー……。君が想像しているような意味で、この子に申し訳ないと思う……と、私はそう言っているのではないよ…………」
 真っ赤に染まり、腫れぼったくなってしまった目許を幾度か擦りながら、語りつつ彼は、恋人を見つめる。
「じゃあ、何が……?」
「…………子供の頃、手慰みに爪弾くことを覚えてから今日まで、アレを奏でることは、私にとって、数少ない慰めの一つだった。砂漠の直中に建つこの城に、それでも作られた小さな中庭を、美しいと思った子供の頃から今まで、あの場所を愛することも、私の慰めの一つだった……。……あの旅を終えてからは、君と共に過ごすことも慰めの一つになって、アイラと出逢ってからは、アイラと逢うことも。私にとっては、指折り数えられる程数少ない、慰め達だった…………」
「……そうか」
「…………うん……。でもね、セッツァー。……慰め、だなんて。そんな想いを、私がアイラに傾けたことが、そもそもの間違いだったんだと思うよ……。私にとって、この子が真実慰めだったとしても……『生きていた』この子にそんなこと求めるのは、傲慢なことだったのかも……って…………。庭に慰めを求めることとも、音楽に慰めを求めることとも、生き物との関わり合いは、違うのにね……。私が身勝手に、あの子を求めたばっかりに、こんなことに…………。もっと良く、考えてあげれば良かった…………。後悔なんかしてみたって、何にも始まらないけど……っ……」
 ────真っ赤に腫れ上がった、無惨な目許を恋人へ向けて、どうすることも出来ない後悔だけを、エドガーは吐き出して。
「……あのな」
 再び、ホロホロと泣き出した彼を、少しばかり乱暴に、セッツァーは抱き締め直した。
「犬猫の言葉は俺達には解らないし、俺達の言葉も、連中には解らないかも知れない。……だから、本当のことなんて、解りっこないんだろうが。こいつはお前に、懐いてくれてたんだろう? お前の手から餌喰って、無防備な顔してお前の傍らで腹晒して寝て。そうやって、過ごしてたんだろう? …………だったら、こいつはお前の傍にいて、少なくとも幸せだったってことにはなる。幸せだったこいつから、お前が少しばかりの慰めを貰ったって、罰は当たらない。……そもそも、な。幾ら『陛下の為の花壇』とは言え、只追い払うんなら未だしも、あんな質の悪い罠なんざ仕掛けた、血も涙も無い輩に問題があるんだ」
「……だけど……。だからって、それを私が思う訳には…………」
「…………お前な。少し周りに、気付かせてやった方がいいぞ? お前の為にって、そんなお題目掲げて、その実、『それ』が正しいと信じ切ってるてめえの都合の為だけに、何かをやってのける連中が、お前の周りには多過ぎる、って。…………世の中ってのは、皮肉に出来てやがるし。お前が野良猫に餌を与えたのが、良かったのか悪かったのか、それは判らないことだが。……お前の所為じゃない、それだけは言える」
 ……そうして。
 恋人にも、己自身にも、言い聞かせるように。
 セッツァーは、エドガーの耳許で、そんなことを囁いて。
「明日、埋めてやろう」
「うん…………」
 自らの言葉にエドガーが頷いてみせた後も、只、ひたすら。
 恋人を、抱き締め続けていた。

 


 

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