最後の戦いともなれば、苛烈を極めるが相場と決まっている。
最初から、生きて帰れるかどうかなんて、判らない戦いだった。
そんなこと、充分過ぎるくらい、良く判っていた。
判っているだけではなくて。
理解だって、していた。
己の中に鎮座ます『理屈』が、如何なる物であろうと。
隣に並んでいる男の中に鎮座ます『理由』が、如何なる物であろうと。
理屈とか、信念とか、抱えた想い、とか。
そういった物に倣うことと、生きて帰れないかも知れない戦いくさに対する、覚悟とやらをどう決めるのか、は別問題だ。
踏み出す足の一歩、落ち着ける場所を見誤っただけで、この世との、今生の別れはやって来る、そんな『場所』に首を突っ込んでしまったことは、何一つ変わらないのだから。
こういう時は大人しく、常の己の何も彼も忘れて。
一時いっときだけでいい、全て捨てて。
生き残れるかも知れない、が、生き残れないかも知れない、そんな状況に、黙って流された方がいい。
苛烈だの何の、生きるの死ぬの、言ってみた処で何も始まらないし、何も変わりはしないのだから。
ああ、でも。
それでも。
叶うことなら生きて再び、本当の地上に戻りたいと。
本音では、そう願ってる。
叶うことなら、もう。
何一つとして、失なくしたくないと。
そう想ってる。
もう。
この掌ての中から何一つとして、零したくはないと。
そう、叫んでしまいたい。
もう、何一つとして。
もしもの可能性、でしか、ないのだろうけれど。
例えば、もしも。
憎しみだったり、恨みだったり、憤りだったり。
苛立ちだったり、嫉妬だったり、幻影だったり。
そんな名前で呼べる物を、この、傍らに立つ男に投げ付けた理由が。
失いたくなかったからだ、としたら。
大切なモノを失なくして、その、失なくしてしまったモノへの想いを引きずる互いが。
もう、何一つとして失いたくないが為に、投げ付けたモノだったとしたら。
どうなるのだろう。
この世に生きるモノ全て、強くなどないから。
本当の強さの正体を知っている者など、誰一人としていないこの世界で、強く在れる者など、在る筈もないから。
自分達は、唯。
自分の弱さを見たくなくて、相手の弱さを見たくなくて。
失いたくないものを、失ってしまった己の、どうしようもない弱さなど、見ていたくもなくて。
何がどうなろうとも、己の全てを満たす『弱さ』、それを見遣らずに済む、狡いやり方を振り翳して、互いが互い、求めていただけなのかも知れない。
身の内の全てを、弱さで満たしている自分の、弱さを見ずに済む『場所』で。
『支えてくれる人』に、支えて欲しかっただけなのかも知れない。
………………もしもの可能性でしか、ないけれど。
けれど、もしかしたら。