東京魔人學園外法帖
『知恵の実』
ギリギリと、軋む音が立つ程の力で、桔梗は三味線を掴んだ。
そんな風に扱ったら愛用のそれが痛む、とも思い至れぬくらい、彼女は今、激しく機嫌が悪かった。
────己達の真の敵、柳生宗崇を斃すには避けて通れぬ道だと悟り、憎き徳川幕府の狗と久しく目の敵にしてきた龍閃組の者達と、本心では渋々ながら手を結んだあの日より、もう一月と少しが経つから、まるで馴染みの店に屯するかのように、その龍閃組の者達が、己達の鬼哭村を訪れて、ふらふら村内を歩き回っていても、今更、桔梗とて目くじらを立てたりはしない。
彼等の顔を見掛けると、時折、何とも言えぬ心地を覚えることは未だにあるけれども、自分達と龍閃組が、過去を水に流して手を取り合った最大の理由は、彼──緋勇龍斗が望んだからで、気付かぬ内に、徳川憎しの思いで目が眩んでいた自分達鬼道衆の、本当の有り様とでも言うべきものを無言の内に悟らせてくれた、あの彼──周囲に集う者全ての目を惹き付けて止まないあの彼が、鬼道衆の根城である鬼哭村に龍閃組の誰かが、龍閃組の根城である龍泉寺に鬼道衆の誰かが、としている光景を心の底から喜ばしく感じていると言うなら、それでいい、とも桔梗は思っている。
『一度目の慶応二年』は龍閃組に与し、『二度目の慶応二年』は鬼道衆に与した龍斗には、双方の者達が大切で、誰もが家族にも等しくて、だから彼は余計……、と言うのも、彼女は弁えている。
但、それ故に、未だ、龍閃組だの鬼道衆だのと言った『括り』を何処か捨て去れない自分達は、「龍斗は元々は、自分達の仲間なんだ」との思いも捨て去れなくて、そんな、何処か過剰な『身内贔屓』が、一月と少し前までは敵だった者達と龍斗が仲良さそうにしている姿を見掛ける度、悋気に似た思いを覚えさせるのも確かで。
何時かの宣言通り、今では龍泉寺と鬼哭村を公平に行き来している龍斗が、七日振りに龍泉寺から鬼哭村に帰って来たと言うのに、蓬莱寺京梧を筆頭とする龍閃組数名と言う、金魚の糞の如くな『おまけ』がくっ付いて来たから、桔梗の機嫌は、今、激しく悪かった。
……そりゃね、本当に、掛け値なしに、今更、あの赤毛猿達が当たり前の顔してやって来たって何とも思いやしないよ。驚きもしない。
でも! はっきり言って邪魔なんだよ、あんた達! 特に、あの赤毛猿! あたしだってね、二人っきりで、たーさんに聞いて欲しい話の一つや二つ!
…………と、憤ってもいた。
桔梗自身、これでは、初めて人を好きになった何も知らない小娘が、誰彼構わず悋気しているようだ……、と感じなくもないが、鬼哭村にくっ付いて来てまで龍斗にちょっかいを掛けている赤毛猿──京梧の姿が目の端を掠めるだけで、きぃぃぃぃぃぃ! ……となるのを抑えられなかった。
誤解なきよう書き添えるなら、桔梗がその手の想いを秘かに寄せているのは、鬼道衆の長である、九角天戒、その人だ。
叶うとは思っていないし、叶えていいとも思ってはいないが、桔梗が、言葉にするなら「ほんのり……」とした想いを傾ける相手は彼。
彼女にとって、龍斗は決して、そういう意味での相手にはならない。
が、何処か過剰な仲間意識を越えたモノを、龍斗に向けているのも、又確かだ。
……桔梗は、ヒトには到底非ざる時を生き抜いている。
彼女には、ヒトでないモノの血が流れているから。
そんな彼女の中のヒトでないモノの血が、彼女自身へ向けて時折訴える、「龍斗は、もしかしたら人よりも『自分達』に近しいモノなのかも知れない」との囁きが、彼女が仲間意識を越えたモノを龍斗に向ける理由だ。
尤も、だからとて、龍斗がヒトでないなどと、桔梗は思いもしない。
それも又、別の意味での仲間意識の延長かも知れないし、己が血の囁きは、九角天戒がそうであったように、龍斗も、己がヒトとは言えぬことを何一つ拘
「たーさん。たーさん『だけ』に、ちょいと付き合って欲しい所があるんだよ」
こうなったらもう、実力行使に訴えてやる! と彼女は。
九角の屋敷の縁側で、主の九角と、何が切っ掛けだったのか桔梗は知らないが、彼と喧嘩友達のような関係を築き始めた京梧と、九角の従兄弟で武人馬鹿で破戒僧な九桐尚雲が、龍斗と渋茶と団子の皿を囲みつつ話し込んでいる処へ無理矢理割り込んで、龍斗を『攫う』と言う手に打って出た。
「桔梗、付き合うのは構わぬが、せめて、団子を食べ──」
「おい! ひーちゃんを何処に連れてく気なんだよ!」
思っていた通り、「この女狐!」と言わんばかりに睨んできた京梧を、ギロッと睨み返して、
「あんたに、兎や角言われなくちゃならないことじゃないだろっ」
序でとばかりに、ふんっ、とツンケンした態度をくれ、戸惑う龍斗の腕を強引に引きつつ、彼女はそのまま立ち去る。
「……何事だ…………?」
「…………気が立っている女性
ぎゃあぎゃあと、そんな彼女の背へ尚も悪態を投げ付ける京梧と、訳も判らず引き摺られるに任せている龍斗と、龍斗の腕をがっちり掴んだまま振り返りもしない桔梗とを見比べて、九角は、団子の串片手に何処か引き攣ったような声を絞り、九桐は、そんな彼へ、訳知り顔で「触らぬ神に祟りなし」と入れ知恵した。
良く言えば春風の化身の如く、悪く言えば何処かがおかしいのではないかと疑いたくなるまでに、龍斗は年がら年中、ボーーーーーーーーー……っとしているが、流石に、茶と団子と他愛無い男同士の会話を楽しんでいた縁側より、強引に引き立てられたのは訝しく思ったのだろう。
ずんずんと、村の正門目指して一直線に歩いて行く桔梗へ、何か遭ったのかと頻
……嘘ではない。
龍斗に、二人きりになれる所に付き合って欲しくて、それは、野暮用と例えられる程度の細やかなものなのだから、桔梗は嘘は言っていない。
だが、他人との関わりから生まれるあれやこれやを、四角四面に捉えがちらしい龍斗に、己自身でも名状し難い複雑な思いとこの成り行きが汲める筈など無かろうから、彼にも会得出来る明確な行き先は必要だろうと、いい加減な言葉で龍斗の疑問を躱しつつ、桔梗は、暫しの思案の果て、吉原に行こう、と思い定めた。
────自分のこの態度を、男女の諸々所以のことかと誤解してしまうくらい、龍斗がそちら方面に聡ければ、真実二人きりになれる艶っぽい所に引き摺り込んで、彼をからかう──それは酷く趣味と質の悪い冗談にしかならないが──と言った悪戯も出来ようが、それこそ吉原のような遊郭が何の為にあるのか、遊郭の遊女達の商売が何なのか、朧気なれど知識としては持っていたものの、男達が吉原等に集いたがる真の理由
…………そう。類い稀なる野暮天な龍斗には、何時もの見回りに行くから、と言う風な、彼にも即座に理解の適う理由でなければ、通じない。
もうそろそろ昼八つになる今から見回りを建前に行くには、吉原は、若干遠過ぎるきらいが無きにしも非ずだが、猪牙舟を使えば造作もないし、下手に内藤新宿などに出てしまったら、誰に邪魔されるかも判らない。
その点、吉原なら、見飽きた顔に出会しても、精々が們天丸くらいだ。どういう風の吹き回しか、大層な女好きだそうなのに、あの赤毛猿は、ここの処、吉原に寄り付かぬそうだし。
……と、吉原行きを一人胸の中で決めつつ、つらつら考えた桔梗は、己の選択に満足を覚え、行く足を早めた。