村のある山を下りて暫し行った四谷の外れにて、追い立てられるように猪牙舟に乗せられてからも、何処へ連れて行かれるのかと、不思議そうな面を崩さなかった龍斗が、舟が山谷堀の入り口──日本堤で停まった途端、行き先は吉原だと判ったのか、やっと面から怪訝な色を消したのを盗み見て、桔梗は、己の考えは正しかったと、微かに笑った。
猪牙舟とは言え、女と二人で揺られていたのに何も感じなかったらしいことには、本当に野暮天だ、と呆れもしたが。
だが、これで、暫くは市中の見廻りを建前に、龍斗と話し込める、と彼女は、村を出て来た時のように彼の手を引いて、日本堤から五十間道へ続く衣紋坂を下り、見返り柳をやり過ごして、吉原の大門を潜った。
遊女以外の女が吉原に出入りする際に必ず必要な『大門切手』を桔梗は持っているし、大見世の花魁達を筆頭とする遊女達にも、中の男達にも、吉原では名を知られた三味線屋として通っているので、彼女の立ち入りにうるさく言う者はなかった。
それ処か、大門から真っ直ぐ続く仲ノ町の、待合の辻を越えるか越えないかの内に、あちらからもこちらからも、彼女に話し掛ける声が、男女問わず飛んだ。
だから、呼び止められる度、「多少は仕方無いと思っていたが、何故、今日に限ってこんなにも話し掛けられるのだろう、これでは、龍斗を連れて来た意味が無い」と、彼女は少しばかり苛立ちを覚えた。
けれども、桔梗にとって、遊女と言う存在は何くれとなく心を砕きたい者達で、又、そんな彼女達が言うことは、生業の所為だろう、下世話で時に下品ではあるけれども面白可笑しいから、常のように、その時も、気が付けば桔梗は、遊女達との話に花を咲かせてしまっていた。
「たーさん? どうかしたのかい?」
──そんなこんなな所為で、遅々として進まぬ歩みを、それでも何とか進めた頃だった。
何処となく龍斗の様子がおかしい気がして、桔梗は、仲之町と交わる辻の一つを折れて、吉原をぐるりと取り囲むお歯黒どぶを目指し、人気が絶えた辺りで彼へと問うてみた。
……龍斗は、ボーーーーーーーーー……っとしている普段通り、他人の話に耳を化している──ように見える──時も、仲間達が膝突き合わせて深刻な相談をしている時も、大抵の場合、ボーーーーーーーーー……っとしている。
ボーっとしているだけでなく、酷く不思議そうな顔をすることも多い。
それはまるで、目の前にいる者が、彼へと話し掛けているのに気付いておらぬような素振りであり、眼前で交わされるやり取りが解らぬような素振りであり。
でも、『そうであるのが龍斗』だから、彼の、そんな風なしゃっきりとしない態度を咎める者は、仲間内には既になく、必要な話すら聞いているのやらいないのやら、な彼の尻拭いは放っておいても京梧がするので、桔梗も他の仲間達も、彼が『そうである』のは、豪胆とも言えるくらい暢気者だからなのだろうと気にも留めておらず。
道端で、桔梗と遊女達との立ち話を黙って横で眺めていた先程も、彼は、話に加わるでもなく、ぼっさりした顔で不思議そうに彼女達を見比べるのみで、でも、それは何時も通りの彼で、桔梗も、何時も通り気にするつもりはなかったのだが、龍斗の様子が何時しか、何かに酷く困惑している風になったのに気付いて……、だから、問い掛けを。
「そういうことではないのだが……」
すれば龍斗は、何かがどうこう、と言う訳ではなくて、と言いながらも、語尾を濁した。
「……たーさん?」
そんな風に、彼が言い淀んでみせるのは珍しく、桔梗は訝しげになる。
「その……、あの者とお前がしていた先程の話が、少し、気になったと言うか……」
「話? さっきの、あたしとあの子達の話? たーさんは、あれの何が気になったんだい? ……まあ、昼日中からするには向きじゃない、ちょいと下世話過ぎる話だっただろうけど、吉原辺りじゃ飛び交って当たり前の話だったと思うんだけどね」
けれども、龍斗の口調は益々ごにょごにょとしたものになって、故に桔梗は、ここに来てから今までに、何か、彼が気に留めて然るべき話など出ただろうか? と道中を思い返してみた。
だが、たった今、龍斗にも言ってやったように、幾度となく繰り返した遊女達との立ち話の中身は、何処其処の大店の馬鹿旦那──もとい、若旦那が、あっちの見世の遊女に入れ揚げた挙げ句、御店の金にまで手を付けて、明日にも勘当されるらしい、とか、そっちの見世の花魁に本気になった何処何処の未だ歳若い藩主が、その花魁とのナニの真っ最中に、連れ戻しに来た江戸家老の頑固爺に踏み込まれて大騒ぎになって……、とか、あの大身旗本の隠居は、もう結構な歳のくせして『お盛ん』で、しかも、布団の中でのことを、微に入り細に入り自慢気に吹聴する悪趣味な癖がある、とか、そう言った類いの、本当に、遊郭では童女である禿でさえ朝飯前に噂するようなものばかりで、到底、野暮天過ぎる龍斗の気を引くそれとは思えず、そんな話の合間合間に織り交ざった、あの客はしつこいだの、その客は遊女を人とも思っていないだの、と言った彼女達の愚痴とて、彼にはピンと来ぬだろう、と桔梗は断じた。
「だから、先程の話の一つ一つが、どうのこうのではない。それに、話の大半は聞き洩らした」
「じゃあ、何だい?」
「話自体が、と言うか……。……今、お前も言っていたろう? ああいうことは、昼日中からするには向きではない、下世話過ぎる話だと。そして、あの者達の誰かも、似たようなことを言いながら笑っていた。こんな赤裸々な話ばかりしていたら、只でさえない恥らいが、益々なくなる、とか何とか」
「……? そう……だね。その通りだけど、それが何か……?」
「……………………恥ずかしいことなのだろうか?」
「はあ? 恥ずかしいことかどうか? 恥ずかしい……と言うか……。……そりゃまあ、場所が場所だし、あの子達の生業が生業だから、噂話一つするにしたって、どうしても、こう……町娘とかの艶話よりは遥かに赤裸々って言うか、細かいって言うか、そこまで言わなくてもって言うか……、そんな話が飛び出てくるから、まあ、その…………」
「……ああ、すまない。言葉が足りなかった。そういう意ではない。お前達がしていた話が、と言うことではなくて、言うなれば、あの話の中身そのものが」
「………………へっっ!?」
どんなに思い返してみても、龍斗を困惑させたり言い淀ませたりする話が飛び出た覚えは得られず、龍斗は一体何を思い、何を言わんとしているのかと、内心首を捻っていたら、咄嗟には意味の飲み込めなかったことを告げられ、桔梗は思わず、潰れた、とても間抜けな声を洩らした。
「あ、あの……、たーさん?」
「何だ?」
「ちょいと確かめさせておくれ。……要するに。たーさんは、男と女の閨事そのものが、恥ずかしいことかどうかを、あたしに訊いてるのかい?」
やけに辺りに響きまくった、頭頂から天を目指して突き抜ける感じに洩れた甲高い声をぶつけられても、どうしようもなく濁ったお歯黒どぶの堀端の風景からこの上もなく浮くまでに、正し過ぎる姿勢で佇み続ける龍斗を見遣りつつ、桔梗は、何とか彼の言わんとすることを汲み取り、うっかり馬鹿面を晒し掛けて……、が、顔面が崩れる寸前で漸
「……そう、だな。そういうようなことだ」
こっくり、龍斗は頷く。
「たーさん………………」
だから。
随分と永い間、生き続け、人の世を漂って来たけれど、まさか、まぐわいとは恥ずかしいことなのか否か、と真顔で問われる経験をするとは予想だにしなかった、と桔梗は、深く盛大な溜息を吐いた。
──色事、艶事に関しても、龍斗は素っ頓狂なことばかりを考えたり言ったりするし、その手のことの捉え方がおかしいから、子供でも知っていることを不思議に思ったとて、今更、少なくとも自分は、そう簡単に驚いたりはしないが。
しないが…………、何をどう教えられて育てば、どんな世間の中で暮らせば、こういう人物が出来上がるのだろうと、桔梗は勢い、世までも儚みたくなった。
だが、益々世を儚みたくなる程に、龍斗は、佇まいも変えず、微動だにもせず、じっと己の返答を待っている。
この者なら、それを教えてくれるだろう、と言わんばかりの目をして、誠に、糞が付くくらい、真面目な顔で。
「……だからね、あー……、何と言ってやればいいんだか……。そのね、その……、……そ、そう! 例えばさ、たーさんだって、好きな人がいたら、やっぱり、そういうことは好きな相手とだけしたいと思うだろう? 布団の中でやることや晒す姿は、惚れた相手にしか知られたくないし見せたくないだろう? 事が事だから! それに、その手のことは秘め事って言うくらいなんだ、おおっぴらにすることじゃないんだよ。要は、そういうことだよ!」
……なので。
何となく追い詰められた気になって、桔梗は、自分でも何を言っているのかよく解らない、と思いながらも、畳み掛ける風な口調で言った。
こんな訳の判らない話は、さっさと切り上げたい! ……の一心で。
「惚れた相手にしか知られたくないし見せたくない、か。……成程…………」
────と、途端。
じっと桔梗を見詰めたまま、何やらを思い出したような顔になった龍斗は、暫しの後、微かにぎこちなく彼女より目を逸らし、軽く俯いた。
その様に、ん? と思い、そっと顔色を窺ってみれば、彼が、本当に僅か、頬を染めたのが判り。
………………ピン! と来るものを、桔梗は感じた。