東京魔人學園外法帖
『猫又』
にゃあん、と、猫の鳴く声が聞こえた。
角々の木戸も閉ざされて久しい夜半、名を言うのは憚られる大々名家の下屋敷の中間部屋で夜毎ひっそりと立つ、違法なツボ振り博打に興じてきた帰り道。
蓬莱寺京梧は、数年前に取り潰された、と或る外様大名家の持ち物だった屋敷──廃墟と化して久しい故に、かつては真っ白だった土塀も無惨に崩れ掛けた廃屋の向こうから聞こえてきた猫の鳴き声に、少々覚束無かった足を留めた。
冬になり始めのその日、何とはなし、一人きりになりたい気分に駆られた彼は、懇ろな間柄になって久しい緋勇龍斗すら自分達の塒に置き去りにしたまま、孤独に江戸の町を彷徨った果て、「何時までも、こんな風にふらついている訳にもいかない」と、己でも持て余し気味な気分を変えるべく、以前はよく顔を出していた賭場に赴いて、空っ風が吹いている懐具合も忘れ、決して褒められはしない博打に興じ、序でに結構な量の酒も嗜んでから、漸う重たい腰を上げ、龍斗をも置き去りにしていた塒──公儀隠密である龍閃組の本拠、龍泉寺へ戻る途中だったのだけれど。
聞くともなしに聞き留めた猫の声が、余りにも陰に籠っていた為に、少しでも急かせた方が良い足を、思わず、の態で京梧は留めてしまった。
誰にも何も告げず、ふらりと出てしまったから、きっと龍斗が、気を揉みながら自分の帰りを待ち侘びているだろう、と判ってはいたが。
得たくもないのに得てしまった、公儀隠密の一員と言う自身の肩書きを考えれば、疾うに人々も寝静まった夜半、裏寂れて人気ない屋敷町の直中でぼっさりと突っ立っているのは、危険を伴うと言う意味で具合が良くないのも承知だったが。
その時、京梧は、崩れ掛けた土塀の向こう側から一声だけ上がった甲高い猫の声に、我知らず心惹かれた。
そうして暫し、彼は、もう一声か二声、さっきの猫の声が聞こえはせぬかと、往来の真ん中に立ち尽くして、月もない夜空を見上げ、耳峙てた。
だが、彼の耳が拾ったのは、夜陰に紛れて息潜める何者かが立てた、微かな衣擦れを伴う身動ぎの音で、酒精に塗れた所為で火照る肌が感じたのは、何時の頃からか辺りに滲み始めた殺気だった。
自身へと向けられた、刺す程の殺気。
「……何処の何奴か知らねぇが、無粋だなぁ、おい」
賭場での遊びと酒のお陰で直り掛けていた気分も、見ず知らずの猫の声に耳峙てていたかった気分も、全て台無しにする音と気配に、京梧はボソリと呟いて、あからさまに顔を顰める。
その呟きは、彼にしてみれば単なる愚痴だったが、彼に襲い掛からんとしていた者達にとっては襲撃の合図代わりにしかならなかったようで、低い声の呟きが夜陰に溶け込むと同時に、あちらの物陰からも、こちらの物陰からも、ばらばらと音を立てて、食扶持に困り果てた浪人らしい身形
「ふうん……」
片手の指では数え切れない、刀を手に己を取り囲んだ男達を、京梧は、詰まらなさそうに眺める。
──月も姿を見せぬ夜の闇は濃いから、はっきりとは判らなかったが、誰も彼も、見覚えのない顔をしていた。
が、こちらに覚えがないだけで、後にして来たばかりの賭場に常日頃から屯して、襲う相手を見繕っているような質の悪い連中かも知れない、と彼は思った。
たまたま、賭場から出て来たこちらを見掛け、金目の物を奪おうと企んだ盗賊崩れかも知れない、とも思った。
しかし、そんなこと、彼にはどうでも良かった。
己を取り囲んだ男達が、如何なる理由で襲い掛からんとしていようとも、彼には関わりなかった。
何がどうあるにせよ。
縦
自身相手に抜刀した者達を前に、京梧が成すことは、そして成せることは、男達を斬り捨てる、それのみだった。
帯刀した五名以上の男達の相手を一人で、と言うのも、男達は夜道を一人行く『カモ』を襲い慣れている風なのも、京梧にとってはどうでも良いことだった。
それしきで己がどうこうなるなどと、彼は微塵も思っていなかったし、彼の有する腕前は、その自信を決して裏切らぬものだった。
「おい。痛い目を見たくなかったら、懐の物を置いていけ」
「……おいおい。そいつぁ俺の科白だろうが。痛い目を見たくなかったら、とっとと消えな」
確かな腕前に支えられた自負が齎す余裕で、京梧が男達を眺めていたら、彼の思った通り盗賊崩れらしい男達は、お決まりの科白を言い出して、「馬鹿言ってんな」と彼は肩を竦める。
「馬鹿は貴様だろう。大人しく言うことを聞いていれば、命までは落とさずに済んだものを」
「だから。片っ端から俺の科白を取るんじゃねぇよ。大人しく、俺の言うこと聞いときゃ良かったのにな。……ま、お前らみたいな馬鹿の命なんざ、取ってみたって面白くも何ともねぇから、二度と、その段平
「…………小癪なことを……っ」
────心底から己達を嘲っているのが手に取るように判った京梧の態度に、直情な男達は腹を立てたのだろう。
怒りの籠った声で言いながら、彼等は各々、ザッ……と往来の土踏みしだく音を立てつつ、一歩のみ彼へと迫ったが。
「────但し」
「……何だ。遺言でも言いたいのか」
「違ぇよ、馬鹿野郎。────但し。お前達の誰か一人でも、俺に掠り傷の一つも付けられたら。その時ゃ返礼代わりに、三途の川ぁ渡らせてやる。……有り難いだろう?」
今にも構えた白刃翻しそうな男達を見比べ、すらりと腰の刀を抜いた京梧は。
ニヤ…………っと、その場の誰よりも冷徹な、いっそ狂気とも言える嗤いを頬に刷いた。
「………………っっ……」
狂気、とすら例えられる嗤いでありながら、どうしてか、冴え冴えとしている彼の面に、男達は僅かの間、怯んだ。
……その隙を、京梧は見逃さなかった。
立ち塞がる風に真正面に立つ男の眼を捉えながら、右手のみで構えた彼の刀の切っ先は、右横を占めた、誰よりも早く得物を振り被った男の肘へと伸びて、夜目にも白い骨が覗くまで、その肉と筋を断った。
辺りに舞った紅色を目にし、血走った瞳を見開きながら突きを繰り出してきた後ろ正面の男へは、ヒョイと身を躱し様、座り切っていない腰に蹴りをくれてやって、真正面の男の銅を抉らせ。
間を置かず、すっと身を屈めた京梧は、左手にいた、目の前で起こってしまった同士討ちに憤りつつも慌てふためき踏鞴を踏んだ男と、仲間の腹を抉ってしまったことに腰を抜かした男、双方の足の腱を、一太刀で、顔色も変えずに斬ってから。
返り血の痕一つない、鮮やかな白地に同じく鮮やかな藤色で鳥の羽模様を染め抜いた着物の、裾と袂を優雅に翻し、ひと度は屈めた体を起こして、ゆらり、風に揺れる柳の枝の如く振り返ると、残るは三名程になった盗賊崩れ達を眺めた。
「おら。掛かって来い?」
そうして、先程の嗤いとは一転、誠に慈悲深気な笑みを浮かべた彼が、この場には実にそぐわぬ、異様なまでに優しい声音でそう言うや否や。
三人の男達は、鮮血撒き散らし往来に横たわる仲間達も見捨て、声にならぬ悲鳴を上げて、何処へと走り去って行った。
「……何でぇ。本当に、面白くも何ともねぇじゃねぇか」
逃げて行った男達と、呻き声洩らしつつ横たわる男達を見比べ、ぼやきながら溜息を吐き出した京梧は、着物の懐に手を差し入れ、取り出した懐紙で愛刀に纏わり付く血の汚れを綺麗に拭ってより、用済みになった懐紙を背の向こう側に放り投げ、夜空を見上げる。
彼が抜刀してから納刀するまでに要した刻は、束の間としか言えぬ刻で、空を覆った厚い雲すら殆ど流れていないと知った途端、彼は、「馬鹿馬鹿しい……」と再びの溜息を吐き、斬り捨ててやった盗賊崩れ達もそのままに、のんびりと歩き出した。