それまでは止んでいた、風が出て来たのだろう。
裏寂れて人気ない屋敷町の中を縫うように続く細い往来を、龍泉寺目指して緩慢な足取りで辿っている内、何時しか雲は流れ去り、下弦よりも尚細い月が顔覗かせていた。
その月の姿に、既に丑三つ時も過ぎていると知った京梧は、「こりゃあ、ひーちゃんの雷が落ちるな」と、こんな刻限になっても起き続け、龍泉寺の門前辺りで己を待ち続けているだろう『ひーちゃん』──龍斗へと思い巡らせ、ふるりと身を震わせた。
だが、申し訳なさと共に、自分目掛けて必ずや落ちるだろう龍斗の雷に怯えても、彼の足は早まらなかった。
己を案じているだろう龍斗を、一刻も早く安堵させてやりたい、と思わないではなかったが、つい先程過ごした束の間の刻の中で他愛も無く斬り捨てた男達が、ふ……と脳裏を過ったから。
────箸にも棒にも掛からない、三途の川を渡らせてやる価値もない、どうしようもない男達とのやり合いだったけれど、己よりも強い相手だけを求めて諸国を彷徨っていた頃、そんな輩共とやり合うのは、京梧にとっての常だった。
日毎夜毎、馬鹿な輩共と刀を交えて。
これは、と見込んだ相手とも刀を交えて。
彼は日々を過ごしてきた。
見込んだ相手との立ち合いは兎も角、馬鹿共とのやり合いまでをも望んでいた訳ではないが、そんなことも、そんな日々も。
己が剣だけを全てとして、誰よりも強くなる為には。
天下無双の剣を持って、その頂に立つ為には。
何時か見えるだろう剣の道の果ての頂──否、きっと辿り着いてみせると誓った、剣の道の果ての頂に立つ為には。
必要、と言えることの一つだ、と京梧は受け止めていた。
必要処か、無頼なだけの毎日に、流離うだけの生涯に、望んで身を浸したのは己だ、とも。
────全ては、天下無双の剣の為の、剣の道の果てに聳える頂に一人立つ為の、糧だった。
自ら欲したことだった。
…………それが、どうだ。
江戸の地を踏んでからの己の日々はどうだ。
塒を得て、肩書きを──欲しくはなかったが──得て、共に戦う仲間を得て、護るべきものを得て。
死合う──否、死に合うに相応しい者共との巡り逢いも、命を懸けてでも斃さねばならぬ強大な敵との巡り逢いも得て。
己が命ばかりか、ともすれば生涯すら捧げても悔いはないと思える程に、誠、愛しき者すらも得た。
こいつが俺の運命だと、出逢った刹那に悟れてしまった、愛しい愛しい者。
……江戸での日々、江戸の町で得たもの、それは言葉にするなら、幸と言えるのだろう。
掛け替えないモノでもあるのだろう。
…………でも。けれども。
この日々の先に、天下無双の剣へと繋がる道が拓けているとは、どうしたって思えない。
先程相手にしてやったような馬鹿な輩達とばかり袖振り合いながら、己が腕っ節と一振りの刀のみを携え諸国の隅から隅まで流離い続け、己よりも強いモノを求め続ける、そんな日々の中にしか、目指したい所に辿り着く為の道は見出せぬ気がして仕方無い。
なのに。ああ、なのに。
以前は常のようにやり合っていた連中とのそれを終えた帰り道、己は、愛しい愛しい龍斗に思い馳せて。
龍斗へと思い馳せながら、さっきの馬鹿共の横顔を思い出して。
何時だって、そう今だって、その気になれば何時でも好きな所に向かえる足先を、当然の如く、あのボロ寺へと向けている。
戻った途端に落ちるだろう、龍斗の雷に怯えつつ。
「………………ああ、馬鹿だ。本当に馬鹿だ。どうして俺は、こんなにも……────」
──────待ち侘びているだろう龍斗の許へ、少しでも早く、と気は急くのに、どうしても早まらない足を引き摺る風に往来を行きながら、つらつら、考え事をしていた京梧は、又、はあ……、と溜息を吐き、己で己を罵った。
どうして、こんなにも、こんなにも、己は愚かなのだろう、と。
どうして、生涯を懸けてでも辿り切りたい剣の道と、運命
「ん……? ……ああ、石蕗、か」
……そうやって、何時までも自身を罵って、ぐじぐじと悩みもして、けれども彼は、ふと目の端を掠めた、綺麗な黄色の花の前で足を留め、「こんな土産でも、ひーちゃんは喜んでくれるかも知れない」と、懐手にしていた腕を伸ばして、見掛けた石蕗の花を摘んだ。
てめぇの馬鹿さ加減に、涙まで滲みそうだ、と思いながらも。
二つ、三つと摘み取った石蕗の花を手に、龍泉寺へと続く道を伝った京梧の目に、塒となって久しいボロ寺の門が見えてきた時。
「京梧!!」
彼が思った通り、疾うに丑三つ時を過ぎても門柱に凭れて想い人を待ち侘びていた、龍斗の甲高い声が辺りに響いた。
「よう、ひーちゃん」
「よう、ではない。全く、お前は……。誰にも、私にも告げず、ふらりと何処かに出たまま、こんな刻限になるまで何処をほっつき歩いていたのだ」
姿より先に、京梧の纏う氣を察したらしい龍斗は、薄闇の中、真っ直ぐに彼目指して駆け、思わずの握り拳を固めながら、説教を始める。
「…………あー……。……すまねぇ」
「無事だから良かったものの。柳生崇高の所為で江戸中が不穏な今この時に、一人きりで出歩くなどと…………」
「悪かったって。そうガミガミ言うんじゃねぇよ。ちょいと、色々をサボりたくなっちまってな。平川※1の土手で昼寝してたんだ。そしたら、うっかり寝過ごしちまって、気付いたら夜でよ。冷えちまったもんだから、夜鷹蕎麦で一杯引っ掛けてたら、そのー……」
「ほう…………。なら、京梧。お前から血の匂いがするのは何故なのだ。どのような訳があってかは知らぬが、大方、人を斬ったのだろう。返り血一つないのは流石だと思うが、匂いは誤魔化せない」
「…………………………。……すまない。勘弁してくれ、ひーちゃん。な? この通りっ!」
龍斗の怒りの矛先を逸らし、諸々を誤魔化す為には、と京梧は詫びつつも即興のでっち上げを口にしたが、そのような言い訳は龍斗には通用せず、「あー……」と、遠い目をした彼は、へこりと半端に頭を下げながら、摘んできた石蕗の花達を、龍斗の手に握らせた。
「京梧………………」
強引に握らされた石蕗の花と、情けない顔して詫びる京梧とを見比べ、龍斗は、花程度で……、と両の眉根を寄せたが、
「もう、誰にも告げず、一人で何処かに行かないでくれ」
どうしたって京梧には甘い彼は、花に罪はない、を建前に、結局、京梧を許した。
「ああ、判ってる。もうしねぇよ」
揺れる石蕗の花を大切そうに持ち直し、「ほら、中へ」と踵を返した龍斗の後に続きながら、京梧は、ほっと胸を撫で下ろし…………────。
────その時、にゃあん、と、猫の鳴く声が聞こえた。
裏寂れた人気ない屋敷町で聞いた猫の声とは、違う猫のそれなのだろうが、あの猫と同じく、酷く陰に籠った鳴き声に、京梧は思わず立ち止まった。
「おや、猫が。どうしたのだろう、あのような声で鳴いて」
「さあな。こんな刻限に鳴く猫なんざ、猫又か何かだろ。…………なあ、ひーちゃん? 確か、猫が猫又になるにゃ、可愛がってくれた者を喰っちまわなけりゃならねぇんだよな?」
……立ち止まり、そして。
気遣わし気に、猫の声がした方へと顔巡らせた龍斗を、戯れ言めいた話と共に、彼はじっと見詰めた。
「……京梧?」
「…………いや、何でもない。──さ、寝ようぜ。とっとと布団に潜り込まなけりゃ、雄慶の奴に、寝るより先に起こされる」
いきなり、猫が猫又になるには、などと言い出した彼を、龍斗は目を瞬かせながら振り返ったが、京梧は笑いながら首を振って、そっと龍斗の背を押した。
可愛がってくれた、愛しい相手こそを喰らった猫のみが、人も恐れる猫又になれるなら。
未練を断ち切ることで、違う世界が見えるなら。
愛しい愛しい、己が運命
猫であることを捨てた猫又のように、違う世界が見えるだろうか。
────己が命ばかりか、ともすれば生涯すら捧げても悔いはないと思える程に、誠、愛しき者の背に、一振りの刀だけを握り続ける手を添えて、その時、京梧は思った。
そのようなこと、出来よう筈も、叶えられよう筈も、無いと判っていたけれど、確かに彼は、刹那、そんなことを思って、馬鹿げてる……、と微かに詰めていた息を吐いた。
…………でも。やはり、その時。遠くから。
にゃあん、と、猫の鳴く声が聞こえた。
End
※1 平川
後書きに代えて
未だ未だ青い春を過ごしてた幕末当時の京梧にも、こんな風な愚にもつかないことばかり考えてしまう夜を過ごすことがあったんだよ、と言う話。
──少なくとも、外法帖時代の京梧は、龍斗や仲間達の目の届かない所では、或る意味で『とても怖い人』としか言えない一面を垣間見せることもあったんじゃないかな、と思うワタクシです。
実の処、一皮引ん剥いてみれば、東京魔人學園伝奇に登場する全てのキャラ達の中で、最も怖くて最も質悪いのは、京梧なんじゃないか、と思うこともあったりなかったり。
うちの京梧さん、捏造未来編では、龍斗と二人、厄介で傍迷惑なご隠居と化してますけど(笑)。
──それでは皆様、宜しければご感想など、お待ちしております。