「え………………?」

黒白こくびゃく一対の念珠は、手にする者同士、何が遭っても、例え離れ離れになることがあったとしても、必ず互いを引き合わせてくれる、との逸話と共に円空より授かったのだと、とてもとても嬉しそうに話しながら龍斗が、「京梧に持っていて欲しい」と差し出した黒珠の念珠を、有り難く受け取り懐へと仕舞い。

戦いを終えて、好きだった江戸の街を護り通せた今、「もう、江戸の街で、俺のすることはない気がする」と、咄嗟に意を固めて京梧が伝えれば。

龍斗は、何時でも茫洋としている瞳を、零さん限りに見開いた。

「京梧……?」

「……ひーちゃん。何も言わずに、俺と約束してくれるか。お前は、この江戸を護れ。俺は何処にいても、お前のことを信じてるから」

けれど京梧は構わず、暗に別れを告げた。

──叶うなら、もしも赦されるなら、共に往きたいと、京梧とて、思わぬ訳はなかった。

けれど、江戸の街は、正月の二日だと言うのに桜が狂い咲きを続ける程、柳生宗嵩の外法や、富士での戦いの煽りをこうむったままで。

『黄龍』の宿星と氣を持つ龍斗だけが、そのような江戸でも護り通せるだろうことは、京梧の目にも明らかだった。

そんな、彼だけが成せるだろうことに加え、これまでの日々、得た仲間達、大切な街、安らぎと太平、その全てを捨てて、明日処か、一寸先のことすら見えぬ、当てもない、食うて行けるかすらも判らぬ浪々の旅を共にして欲しいとは、京梧には言えなかった。

…………だから。

だが、確かに真実ではある京梧のそんな想い達も、『言い訳』でしかなかったのかも知れない。

京梧の瞳の中には、いまだ、天下無双の頂の幻影があった。

どうしても、彼はそこへ辿り着きたかった。

強くなること、己の剣のみを信ずること、天下無双の頂きに焦がれること。

……今尚、それが彼の全てだった。

最愛の龍斗は、確かに彼の全てではあったが、『それ以外の全て』だった。

天下無双の頂だけしか瞳に映せぬ己の至らなさの所為で、龍斗を泣かせたくなかった。

辛いだけの、しかも、天下無双などという、他人には笑い飛ばされるだろうことの為に送る浪々の日々の中で、何時しか己は、龍斗を──龍斗ですら、一欠片たりともこの瞳に映せなくなるのでは、と京梧は秘かに怯えた。

手にした幸せの全てを捨てさせ、彼だけが成し得ることに背を向けさせ、無理矢理、己が傍らに添わせ、その挙げ句に泣かせるよりは、別れのみで泣かせた方が、未だましではないかと彼は思った。

────どうしようもない剣術馬鹿の碌でなしとの別れで泣いても、別れは別れ。

所詮、刹那のみの痛み。

悲しみも思い出も、何時か、刻の彼方に消える。

涙とて乾く。

江戸の街で手にした幸せ、得た大切な人々は、龍斗からは消えない。

……ならば。

こうするのが、彼の一番の幸せに繋がる…………、と。

「…………嫌、だ……」

──胸に過る様々な想いを隠しつつ、京梧が別れを告げた刹那、龍斗は、むずかる子供のように首を振って、弱々しく呟いた。

「ひーちゃん」

「……………………ああ……」

でも。

嗜める風に京梧が名を呼べば、龍斗はこくりと頷き、暫し俯き。

「……代わりに……、その代わりに、京梧、一つ約束して欲しい」

徐に、碌でなし男の懐へと右手を突っ込むと、分け合ったばかりの念珠を引き摺り出し、それを、京梧の左手に嵌めた。

「どんな?」

強引に嵌められたそれへと、京梧は眼差しを落とす。

「…………待っている。例え何が遭ろうとも、お前の帰りを待っている。たった今、お前と交わした約束通り、私は江戸の街を護る。お前の、信じているとの言葉を裏切るような真似はしない。だからお前も、何が遭っても、何時の日か必ず私を迎えに来ると、約束して欲しい。その念珠を外さずに、旅の道連れとして欲しい。ずっとずっと、私はこの場所でお前を待っているから……」

同じく、黒珠の念珠へ目をやり、己の左手に白珠の念珠を嵌め、龍斗は、泣きそうな声で懇願を告げた。

例え何が遭ろうとも、この街で、この場所で、ひたすら、待ち続けるから。

何時の日か必ず、迎えに来て欲しい、と。

「……ああ。────ひーちゃん。……龍斗。必ず、もう一度、ここで逢おう。この────新宿で」

その想いに、しっかりと頷きを返して、京梧は再会を誓った。

己達は、もう二度と逢わぬ方が良いのだろう、と思いながらも。

それでも彼は、再会を誓った。

愛しかったから。龍斗が愛しくてならなかったから。

叶えてはいけない、叶えられる筈も無い、と自らを罵りつつも、彼は確かに、せめて、逝く前くらいには一目だけでも、と願った。

果たす時が、互いの今際の際となろうとも、約束を守ろうと。

………………けれど。

『その世』で、彼等が再び巡り逢うことはなかった。

別れは、『その世』での、最後の別れとなった。

龍泉寺の境内の桜、全てが散った日、龍斗のみに暇を告げて京梧は新宿を発ち。

その後、消息を絶った。

行方は、杳として知れなかった。

……それも、道理だった。

江戸の街を離れ切る前に、彼は、刻の道なるモノにその身を飲まれ、『その世』より姿を消していたのだから。

──故に。

交わした誓いと、まるで京梧の身代わりの如く己が許に残った一対の念珠の片割れだけをよすがに、龍斗が月日を送ろうと。

如何程に待とうと。

京梧が、『その世』の誓いの場所に戻ることはなく。

龍斗のみを、誓いの場所に取り残し、歳月は流れた。

惨いまでに留まることなく、歳月は、唯。