──1980年 4月──
ふ、と気が付いた彼の目の前には、見たこともない景色が広がっていた。
家々なのだろうことは何処となく察せられる、が、見慣れぬ様式の建物が辺りを埋め尽くしていた。
立ち尽くした足許に土はなく、暗い色した石畳のような……けれど、決して石畳では有り得ぬ何かが延々と続いていた。
空の色は黒なのに、燈明よりも尚明るい灯があちらこちらに輝き、まるで、昼のようだった。
見上げた夜空の彼方には、細長い岩山のような物が幾つも聳えていた。
吹く風も、何処より漂う水の香りも、澱んでいる、と感じられ、自然の息吹は微か過ぎた。
夜目にも緑が窺えぬ訳ではなかったが、目に映る木々は、花の頃を迎えると植えられ、花の頃が終わると引き抜かれた、遊郭・吉原の桜に似て、人の手が入り過ぎていた。
そんな、歪と思える木々が整然と並ぶ傍らを、時折、鋼の箱のような物が、目に刺さる程の光を放ちながら、有り得ぬ速さで行きつ戻りつ、として。
「………………ここは、何処だ……?」
左手を腰の刀の柄に乗せ、右手は頤に当てつつ、彼──京梧は酷く考え込んだ。
「……あの、よ」
──随分と長い間、彼はその場に佇み悩み。
やがて、そこ──佇んでいた歩道を歩いて来た若い男女に、彼はソロ……っと声を掛けた。
男女は、京梧の目には奇妙な格好をしている、と映ったが、柳生宗嵩と共に戦った仲間達の幾人か──異国の者だった彼等の身支度に似ているとも思えたので、何とか。
「あ? …………え、え、え? 何? テレビの撮影か何か? あんた、役者?」
「うわーー、あたし、時代劇俳優って、実物見るの初めて!」
と、声掛けられた男女は、足を留め、一瞬、は? との表情を浮かべて直ぐ、京梧を頭の先から足の先まで眺めてはしゃぎ出した。
「カメラ、どっかにあんの?」
「ドラマか何か? それとも映画? あああ、まさか、どっきり?」
「や、俺は、その……。────あ、ああ! そうなんだ、俺は役者なんだ。で、そのー、な。て……れび? の、サ、サツエイ……で、ここが何処か訊きたいっつーか、まあ、何だ、あーー…………」
それなにりは言葉が通じるらしい、はしゃぐ若い男女の口から飛び出る単語は何一つ理解出来なかったが、咄嗟に、話を上手く合わせた方がいいのかも知れない、との勘が働いた京梧は、辿々しく言って。
「はあ? ここが何処か……──、って、あ! そっか、罰ゲームか!」
「何かのバラエティの罰ゲームなんだぁ」
「そうっ。そうそうっ。ばつ……げぇむ」
「へーーーー。それで、そんな格好させられて、ここが何処か、なんて馬鹿な質問してんのねぇ。……じゃあ、可哀想だから教えてあげる。新宿区よ。新宿区新宿×丁目」
一層盛り上がった男女は、彼の知りたかったことを教えた。
「シンジュクク? ……シンジュク──新宿、なのか……?」
「そうよ、何言ってんの、本当はあんただって判ってるでしょう?」
「多分、そうやって恍けなきゃなんないのも、罰ゲームの内なんだぜ。……他には? 何か、訊きたいことある?」
「ええと、だな……。この近くに、その……何か目印になるようなモン、ねえか?」
「目印?」
「屋敷とか……、神社とか、寺とか、橋とか……」
「えーーー、そんなの、何かあったっけ?」
「屋敷に神社に寺に橋ぃ? …………あ、そうだ。この道を、──って行くと、新宿御苑があって」
「しんじゅくぎょえん?」
「庭だよ、庭。昔っからある、でっかい庭。で、あっちの方に────って行くと、神社があった筈だぜ。確か……花園神社、とか言ったかなあ……」
「花園神社っ!? ホントかっ!? ありがとよ!」
「本当だって。……つーか、あんた、恍け役上手いなー。俳優やってるだけのことあんだ。一度もテレビで見掛けたことないけど。──罰ゲーム、頑張んなー」
「じゃーねー、俳優さーーん」
何一つも判らない、言葉通じぬ異人と語らっている如くな今に滅入りながらも、京梧は何とか男女と話を合わせ続け、少しでも、己にも解ることはないかと足掻き、やがて、花園神社が近くにある、と聞き出した彼は、心底安堵しつつ、抱き着かんばかりに男女へ礼を叫んだ。
そんな彼へ、男女は、ひらひらと手を振り声援を送ってより歩き去る。
「花園稲荷があるってこたぁ、やっぱり新宿、か。けど、この有り様は……」
己も又、その場を離れるような振りして少々進み、二人の姿が消えるのを待って、殆ど往来のないその歩道の片隅に京梧は寄り、又、考え込んだ。
一体、己が身に何が起こったのか、何がどうしてどうなったのか、真っ当な見当が付けられぬ中、今、己のある場所が新宿であることだけは掴めて、が、己の知る新宿と『この新宿』は、相違が有り過ぎ。
唯一の馴染みありそうな場所、花園神社に行ってみようかと足踏み出し掛け、でも、彼はそれを思い留まる。
──教えられた『花園神社』が、己も知る花園稲荷社とは限らない。
例え、あの花園だったとしても、宵の口は疾うに過ぎているだろう今時分に向かった処で、境内には誰もいない筈。
…………ならば。
もしもここが、あの新宿だと言うなら、花園よりも何処よりも、己にとっては不変のモノ、それを求めた方がいい。
────そう思い、強く鞘の鯉口を握り締めた彼は、静かに瞼を閉じて、戸惑うばかりの己を鎮め、氣を探った。
龍脈の氣を。
…………龍泉寺の地下には、鍾乳洞──走る龍脈の氣が吹き出す龍穴があった。
果ては霊峰・富士を目指す、顎開いた大地の『龍』の、双牙穿たれし二箇所の片割れ、それが、龍泉寺のもう一つの姿だった。
時空の有り様が『外界』と異なるそこは、街道を行けば、到底、柳生宗嵩が黄龍を降臨せめようとした『刻』、あの場に駆け付けることは出来なかった自分達に、時を駆ける為の、と例えるに相応しい『路』を開いてくれた。
ここが、あの新宿なら。
氣を感ずること適う己達にとって、それは、何よりも確かな目印と成り得る。
…………京梧は、そう思った。
その氣が感じられれば、龍泉寺もそこに在り、龍斗も在る、ということになる筈。仲間達も。
歩いて行くに難儀せぬ場所にある『花園』が、あの花園であるならば、今この場で感じられる『龍』の氣は、龍泉寺地下より吹き出している氣以外には有り得ない。
穿たれた双牙の片割れの一つ──龍泉寺と対の存在に当たる、天戒達の在る鬼哭村は、花園からは遠いのだから。
…………彼は、そうも思った。
故に。
吹く風も、何処より漂う水の香りも、澱んでいる、と思える『世界の佇まい』の中にあっても、手に取るように感じられた龍脈の氣を追い、見知らぬ夜道を駆け出した。