夜陰に紛れ、迷い込んだ悪夢のように思える硬質な町並みの中を、見たこともない路地から路地へとひたすらに駆け抜け、どうにもこの固い道は、足裏が痛くなっていけない、と思いながら、京梧は目指す場所へ辿り着いた。
……でも、そこに、龍泉寺はなかった。
お堀の向こうの江戸城……とまでは行かぬが、白塀にぐるりと取り囲まれた、高くて四角くて無骨で奇妙な建物だけがあった。
だが、白壁の中より感じる氣は確かに龍脈で、探り間違えよう筈も無く。
「変だな……」
ここはやはり、己の知る新宿ではないのだろうか、だが、龍の氣があるし、とブツブツ呟きながら深く首を傾げつつ、彼は塀を乗り越えた。
中に入ってみれば、何かは判るだろう、と。
そうして、壁を乗り越えた直ぐそこに広がっていた、だだっ広い土の『空き地』を抜けようとし。
「あ? 桜? 狂い咲きの桜は、散ったばっかの筈だぞ?」
四角い『空き地』の隅の至る所に植わっている、満開の花咲かせる桜に気付き、又、彼は深く深く首を傾げた。
「ひーちゃん……。龍斗……。この、どっかにいるのか……?」
けれど、不可思議、としか彼には感じられぬ桜達に、龍斗の名を囁かれたような錯覚を刹那覚え、彼は、『明確な目的』を持って歩き出す。
──龍泉寺のそれと等しい龍の氣がある、というだけで、目に映る光景は、見慣れ過ぎた境内とは似ても似つかぬのに。
ここが、本当に『あの新宿』なのか否かすら、判ってはいないのに。
京梧は、在る、と確信して、龍斗と一対の念珠を分け合い、そして別れを告げた、あの桜の許へ向かった。
目を瞑り、瞼の裏に過ぎる程鮮やかに龍泉寺の境内を甦らせ、記憶が描いたそこを辿って。
瞼の裏に描いたその中で、あの桜に辿り着いた時、彼は目を開いた。
…………眼見開いたそこには……確かに、あの桜があった。
己の瞼に甦らせたそれよりも、古木と化した感はしたが、それでも、間違いなくあの桜だった。
龍斗の姿は、何処にもなかったけれど。
「やっぱり、ここは新宿で、龍泉寺、か……。でも……」
変わらず在ったそれに、京梧は『この場所』を確信し……、けれど俯く。
ここが新宿であるなら、龍泉寺であるなら、どうしてこんなことになっているのだ、と。
「……蓬……莱寺…………?」
古木の幹に手を付き、ひたすら、彼は思い倦ね。
どれ程かが経った頃、足音も気配もなく近付いて来た何者かが、彼を呼んだ。
「……………………犬……神……? お前、犬神なのかっ!?」
名を呼ばれ、え? と慌てて振り返ったそこに立っていたのは、異国の衣装──と京梧には思える──の上に、白くて長い上っ張りを引っ掛けた、無精髭を生やした男だった。
その出で立ちに心当たりは無く、髪の形も違ったし、眼鏡を掛けてもいたが、面立ちは変わらなかったし、氣も憶えのあるものだったから、京梧は疑いもせず、男──犬神杜人へと叫んだ。
「今夜はやけに、『この場所』がうるさいからと、来てみれば……。──蓬莱寺……、お前……っ。……だが何故、お前が今、ここ──まさか…………」
犬神も、探るように京梧を見、京梧を京梧と認めるや否や、憎悪、とも言える眼差しを彼に向け掛け、が、「もしかして、『そういうこと』なのだろうか……」と、戸惑いを露にした。
「犬神っ。てめぇ、犬神だろうっ!? ……ここは、新宿だよな? 龍泉寺だよな? だってのに、この有り様は何なんだ? 一体、何が起こったんだっ!?」
けれど京梧は、彼が漂わせ始めた雰囲気に気付かず、やっと出会えた己を知る者へと、縋る風に怒鳴り。
「…………蓬莱寺。黙って、俺の話を聞け」
犬神は、獣よりも鋭い瞳で京梧を射抜いてから、低く言った。
「お、おう……」
「確かに、この街は新宿で、ここは龍泉寺だ。……いや、この街は、かつて内藤新宿だった。ここは、かつて、龍泉寺だった」
「……は? 言ってることが判んねえぞ……?」
「だから。ここは、お前が知っている新宿でもなければ龍泉寺でもない。お前が、緋勇龍斗達と共に妖異と戦っていた『あの頃』じゃない。……今は、あれから百年以上が経った、未来──遠い先の世、だ。正確には、お前が知っているあの頃から、一一三年が経っている。…………この新宿は、あれから一一三年が経った新宿で、ここのこの姿は、一一三年が経った龍泉寺の姿だ。お前に言っても判らんだろうが、今は、一九八〇年四月、だ」
一睨みで京梧を気押し、黙らせた犬神は、今が、京梧達の時代──慶応三年のあの頃より、一一三年が経った未来の、西暦一九八〇年四月だ、と彼に教え、
「はああああああ? てめぇ、何を寝惚けたこと言ってやがんだ? あれから百年以上も時が経ってるってなら、てめぇなんざ、疾っくの昔におっ死んでんのが道理だろうが。からかうにしても、もうちっとマシなこと言いやがれ」
信じられるかと、京梧は目を吊り上げた。
「…………仕方無い。俺の話が嘘じゃないと、証明してやる。どうしても、お前に現実を納得して貰わなければならん事情があるからな」
しかし、京梧の反応を予測していたらしい犬神は、軽く肩を竦め、白い上っ張り──白衣を脱ぎ捨て、上着も脱ぎ、シャツの前を開けると、一体何を? と戸惑う京梧の目の前で、咆哮を放ちながら、一匹の、それは大きな狼へと、自身の姿を変えた。
「い……ぬが、み……?」
「俺は、人じゃない。人狼だ。お前達が戦った相手の一人、ヴラドのような、夜に属する生き物だ。百年や二百年の刻など、眠っていても過ごせる。だから、あれから一一三年が経った今も、俺は生きている。…………納得出来たか?」
ウ……、と喉の奥より唸り声を洩らしつつ、狼と化したまま、犬神は人語で語り。
「あ……、ああ……。てめぇが、人狼、な…………。ちょいと変わった氣をした野郎だとは思っちゃいたが…………」
少なくとも、彼がヒトとは違う刻を生きるモノであることは充分理解出来た京梧は、目を丸くしたままコクコクと頷き、……が。
「じゃあ……、本当に、今はあれから百年以上が経った世で……、ここは、百年後の新宿なのか……? 百年後の龍泉寺なのか……? ────!! ってことは、犬神! てめぇは知ってんだろうっ!? あいつは、ひーちゃんは、どうなったんだっ!?」
直ぐさま彼は、だとするなら、龍斗は一体どうなってしまったのだと悲痛に言い放ち、ガッと地に膝付くと、人狼の両肩を掴んで揺すぶった。
「…………………………龍斗から、お前への言伝
すれば人狼は、何処となく憐れみの色を双眸に乗せつつ、ボソっと言った。
「言伝……?」
「あいつは、俺がヒトでないと、薄々勘付いていたのかも知れない。『あの日』の前夜、あいつは俺を訪ねて来て、俺に、言伝をしていった。何時の日か、お前がここに帰って来たら、自分の代わりにお前に伝えて欲しい、と」
「何を? それに、『あの日』ってのは……?」
──『あの日』、前夜、龍斗が預けた言葉、それは何だ? と京梧は人狼を急かし。
ゆるゆると、再び人の姿に戻った犬神は、百年前の出来事を、静かに打ち明け始めた。