慶応三年 神無月の十四日。

江戸幕府第十五代征夷大将軍・徳川慶喜は、明治天皇へ、大政の返上を上奏──後の世に言う、大政奉還を行い。

師走の九日、朝廷は、王政復古の大号令を発し、新政府の樹立が宣言された。

徳川家康が開幕してより、二六四年の長きに亘り続いた徳川の治世は終わり、時代も変わり。

慶応四年──否、明治元年 四月。

龍閃組・頭目だった時諏佐百合は、龍泉寺敷地跡に、後の都立・真神学園高等学校の前進となった、真神學舎を開いた。

『己達の世界』を追い詰めたヒトを憎む、人狼、との正体を知りつつも関わることを止めようとはしなかった彼女や、江戸の街を護り通してみせた若者達と縁を持つ内、百合に心開いた犬神も、その学び舎で教鞭を取ることになり。

龍斗や、美里藍達も、迎えたばかりの新しい時代を生きていく為のことを学ぼうと、真神學舎に通う生徒となった。

──新しい時代の中、桜の杜、との別名を持つその学び舎で過ぎる刻は、一見、穏やかだった。

希望を胸に学び舎の門を潜った数多の者達にとって、生徒達を慈しむ師達にとって、それは事実だった。

学び舎も、学び舎で過ぎる刻も、平穏に満たされていた。

甲州勝沼では、新政府軍と旧幕府軍の戦いが起こり、江戸城は無血開城され、船橋でも、宇都宮でも、上野でも戦は繰り返され、戦火は、会津や、北陸や、奥羽へと北上して行ったが、それでも。

学び舎の者達は、新しい時代より得られるだろう希望や情熱を抱いていた。

…………だが。

龍斗だけは、違った。

もう間もなく躑躅の季節が終わるという頃、函館で起こった戦を最後に、新政府軍と旧幕府軍との戦争は終結し、やっと、これで世の中が静かになりそうだ、と人々が明るい噂を始めても。

彼の心の内側は、夜の闇のように暗く、そして凍えていた。

何時でもどんな時でも、春の日溜まりのように茫洋としている彼の風情に変わりはなかったから、時が明治となっても、江戸──東京に住まう仲間達ですら、彼の内側がそうあることを察せられる者は少なかったけれど、百合や、犬神や、鬼道衆を解散し、今は、鬼道衆の本拠だった鬼哭村の村長むらおさとしてだけある天戒辺りは、龍斗が思い煩いを抱えていると、勘付いていた。

黙って江戸から消えてしまってより、行方が杳として知れぬ京梧が、その理由であることにも。

……仲間達の誰の目にも、京梧と龍斗の仲が良いのは明らかだった。

二人が相棒同士であることを、仲間達全てが認めていた。

そして、仲間達のほんの一握りは、彼等が想いを交わし合っていたことにも気付いていた。

龍斗が、真神學舎となったあの場所に在り続けるのは、京梧の帰りを待っているからなのだろう、とも。

だから、龍斗の抱える事情わけ、その全てを薄々悟っていた百合や天戒は、三日と空けず、構い倒す風に龍斗に接した。

全てを把握しようとも、犬神だけは、黙って静観していたが。

────そんな日々ばかりを繰り返しつつ、滔々と時は流れた、明治二年、春。

真神學舎が開かれてより一年。

京梧が、龍斗の前より姿消して二年と少し。

もしかして、京梧の行方が一つとして知れないのは、去年は頻繁だった、新政府軍と旧幕府軍の戦いの何れかに巻き込まれてしまったからではないだろうかと、龍斗が、そんな気が遠くなるような想像と手が切れなくなった頃。

その頃には、新聞、という呼び方の方が通りが良くなっていた瓦版を、以前と変わらず出し続けている遠野杏花が、龍斗や天戒達が顔を顰めざるを得ない話を齎した。

──数日前、ひょんなことから、丁度京梧が江戸より姿を消した頃、両国に出ると噂のあった鬼にまつわる話を仕入れた。

二年前のあの頃、両国界隈では噂に高かった鬼と、外法を操る密教僧に関わる事件が遭ったらしく、その際に、密教僧達が開こうとしていた、『刻の道』と呼ばれる、文字通り、時を越える為の道に巻き込まれてしまった侍が一人いた、というのが仕入れた噂話の粗筋で、どう聞いても、その『刻の道』とやらに巻き込まれた侍というのは、京梧としか思えない。

だから、もしかしたら、彼の行方が杳として知れぬのは、彼が『刻の道』に巻き込まれ、何処か、時を越えた所に行ってしまったからではないか。

………………そんな内容が、彼女が龍斗達に聞かせた話だった。

そして、それより又数日が過ぎ。

彼女が齎した話は真実のようだ、とも判明してしまって……途端。

『今の時代』に京梧はいない、それを確信した直後から、龍斗の態度が、がらりと変わった。

百合や天戒が、三日と空けずに構い倒さずにはいられなかった、何処となく儚い風情は彼の中より掻き消え、茫洋とした、他人の話を右から左へ零してしまうのが毎度の、京梧が常に傍らに在った頃同様、憂いなど微塵も感じられぬ彼に戻った。

彼のその態度を、百合達は、すっぱり潔く、京梧のことは諦めてしまった故なのだろう、と一先ずは受け取り、人々の目には以前に戻ったと映る龍斗や、仲間達の日々は、再び滔々と流れ。

明治五年の新春。

黒白一対の念珠を、京梧と龍斗が分け合ったあの日より、丁度五年が経ったその日。

まるで京梧に倣ったように、仲間達の前から龍斗は姿を消した。

何故、彼が姿を消してしまったのか、誰にも──否、たった一人を除き、解らなかった。

心当たりを探しても見付からなかった。

百合や天戒は、昔通りの素振りを見せつつも、その実、龍斗は京梧のことで思い詰め、世を儚んだのではなかろうかとすら想像し、懸命に彼の行方を追ったが、見付け出すことは出来ず。

龍斗が姿を消して、七日程が経った頃。

何故か百合が、「龍斗のことは、もう、探さないで『おいてやろう』」と、不可解なことを言い出した。

……それは、龍斗を探し続けていた天戒達には納得出来ようもない宣告だったが、何処までも京梧に倣ったかのように、彼の行方は杳として知れなかった為、やがて仲間達も少しずつ、京梧のことをそうしたように、龍斗のことを『思い出』としていった。

百合と、龍斗が消えた日の前夜、彼と会っていた犬神以外は。

──『その日』の前夜。酷く遅い刻限。

犬神は、住まいの長屋にて、龍斗の訪れを受けた。

人目を忍ぶようにやって来た龍斗は、犬神の顔を見るなり、言伝を頼みたい、と言い出した。

何時の日か、京梧が新宿ここ──龍泉寺だったあの真神に帰って来たら、自分の代わりに伝えて欲しいことがある、と。

……前置きすらなく、真顔としか言えぬ面で、何かを覚悟している風に彼に言われ、流石の犬神も、一瞬面食らった。

三年も前に、『この時代』から消えてしまったのだろうと人々が確信した京梧が、ここに帰って来たら、とは、一体どういう意味だろう、とも犬神は思った。

自分の代わりに、との言葉の指す意味も判らなかった。

しかし龍斗は、犬神が怪訝そうになったのも無視して、

「京梧が帰って来たら、伝えて欲しいんです。あの日交わした約束──この江戸を護るとの約束は、きちんと果たしたと。その約束は果たし遂せたと感じられるから、今度は、例え何が遭ろうと、京梧の帰りを待つとの約束を果たすと。約束の場所で──龍泉寺で待っているから、約束通り、私を迎えに来て欲しいと。…………宜しくお願いします、犬神先生」

と、急くように言うと。

犬神が止めるのも聞かず、振り返りもせず、長屋を出て行った。

………………その翌日。『その日』。

龍斗は姿を消した。