「…………そう言ゃ、夕べも」
ぼそりと洩らされた声を耳の中に落とし、昨日も、龍斗はこんな風情を垣間見せたなと、京梧は、己と対照的なまでにきちんと正座をしている彼の正面へ、胡座を掻いて座り直した。
「夕べが、どうした?」
「夕べも、お前、そんな風だったな。本当に僅かの間だったが。お前にとっちゃ酒も水だと、俺がからかってみせたら、お前、そんな風になったな」
「……ああ」
「…………ひーちゃん。今尚、抱えてることがあるなら言っちまぇ。何、気にするこたねぇよ。俺は寧ろ、喜ばしいと思うぜ? お前にとってもいいことだ。あの頃の世から今の世へ来て、お前、少し箍が外れたんだろ。昔は出来なかった白状も、出来るようになるくらい。……今の世に来て、箍が外れて、諸々言えるようになったんだ、他にも、言えるようになったことがあるなら、言っちまえ」
「……………………そう、だな。例えば……──」
「例えば?」
「……例えば。──嫌い、ではないのだ。酒を呑むことは。京梧、お前となら尚のこと。でも……、何時の頃からか酒を嗜むようになって、やはり、何時の頃か、どれだけ呑んでも私は酔わない、それを知って、以来……ふっ、と。時折、思う」
己の瞳を覗き込みつつの京梧に、軽い口調でそう言われ、それもそうか、と思ったのだろう龍斗は、少々居住まいを正してから、ゆっくり、唇を動かし始める。
「思うって、何を?」
「ヒトは、身に過ぎる程酒を呑めば、酔うのが道理。だが、私にはそれが出来ない。だから、やはり……と、時折そう思ってしまうことを、私は止められない」
「やっぱり、そこか」
「ああ、それだ」
「ったく…………」
まるで禅問答でもしている風に、見事な姿勢と雰囲気を保って、けれど声だけは頼りなく龍斗が告げれば、京梧は、ガリっと赤茶のざんばら髪を掻いた。
「……気に障ったか?」
「そうじゃねぇ。──年がら年中ぼーっとしてて、しゃっきりするのは戦ってる時か、どうしても許せねぇことを言われたりされたりした時だけで。何時でも春風みたいで、何時でも春風みたいに笑ってる。……それが、お前って奴だった。あの頃の連中にとっては。連中にとって、お前って奴がそうだったように、あの頃の俺にとっても、お前って奴の『大半』はそうだった。だがよ、やっぱりお前の中にもそんな一端はあって、あの頃のお前は、それをお首にも出さなかっただけなんだなと、そう思っただけだ。で以て、お前の中にそんな一端があるのを、こうなるまで気付いてやれなかった俺って奴に、だらしなさを思っただけだ」
「それを、気に障っ──」
「──違う。たった今、言ったばかりじゃねぇか。喜ばしいことだと。お前にとってもいいことだと思うと。それ以上でも、それ以下でもねぇよ。気に障った訳じゃねぇ」
あの頃──昔は、それこそ、自分や仲間達と共に、宴会、と騒いでいた最中でさえ、心の内側で、己はヒトではないのだろうかと、己はナニモノなのだろうかと、一人だけで思い続けていたことなど、周囲の誰にも毛筋程も悟らせなかったのに、何時でも春風のようだった龍斗の裏側は、常に、と言っていい程『そう』だったのだと知って、それを、二人揃ってこうして時を駆けることになるまで気付けなかった、自身の不甲斐無さに京梧は悪態を吐いたのだけれど、思わず吐いた呟きを、龍斗が誤解し掛けたから。
こっちに来い、と彼を手招き、素直に膝擦って近寄り、しなだれ掛かって来た彼の肩を抱き、笑みながら誤解を解いた。
「…………そうか」
「そうだ。……で?」
「え?」
「『え?』じゃねぇ。それで? 他には? 未だありやがるんだろう? どうしたって、あの頃の俺達にはお前が見せなかった──否、見せられなかった、お前の中の切れ端が。あの『地の底』に遺すことにした、でも遺し切れなかった悔いも。……この際だ、何も彼も言っちまえ。洗い浚い、隠し事も、悔いも、全部ぶちまけて、すっきりして。あの頃と変わらねぇ、春風みたいなお前に戻ってくれや。な? ひーちゃん」
「京梧……」
「それがいいって、お前も思わねぇか? 俺達にあるのは、この先だけだ。何があろうと、何を隠そうと、どんな悔いを残そうと、もう、『あの時』には帰れない。新しい時に流されながら、俺達は生きてくんだ。この時代、って奴の中でな。その為には、俺もお前も、前を見なきゃならねぇだろう? ……前だけを見ること、それを、お前一人に求めるつもりもない。俺も、お前を叩き起こす術だけを探してた二十五年と、『あの日』から昨日までの二十五年、抱え続けた悔いと手を切る。だから、お前も」
そうして京梧は、笑いながら再びの促しを続け、
「悔い……は…………」
龍斗も、又、唇を動かし始める。
「……悔いは……ないものだと思っていた。お前が私の許を去ってから、丁度五年の歳月が過ぎたあの日、あの『地の底』に下り立った時、悔いも、何も彼も、私は捨てたのだと。でも、やはり、悔いはあった。本当に、色々な悔いが。どうしてお前を行かせてしまったのだろうとか。どうして私は、聞き分け良く、お前の言葉を受け入れたのだろうとか。お前を行かせなければ、お前は『刻の道』などに巻き込まれることはなかった筈だとか。お前の声と想いだけが、ヒトなのかどうかも判らぬ私の中で、唯一遠くないのだと……、だから……だから、お前は私にとっての『全て』に成り得たのだと、お前に伝えてしまえば良かったとか」
「……そうか」
「…………ああ。そんな悔いは、結局、私の頭からは消えなかったし、別の悔いも、未だ、私の中にある。お前の言う通り。……私自身の刻を止めたことには、この世へと渡ったことには、微塵の悔いもない。お前との、今一度の巡り逢いの約束を果たす、それこそが、私の望みだったから。だが……あの街を、あの頃の皆を、置き去りにしてしまったことは、どうしても。……誰にも何も言わなかった。ひたすらに、隠し通したことがあるのも。その詫びも。全てを打ち捨てる詫びも。共に過ごした月日への礼も。誰にも、何も、何一つ。二度と逢えぬと判っていながら。生まれ落ちた時より私を愛おしんでくれた『皆』さえ、私は置き去りにして……。………………私は、私の『全て』を選んだ。京梧、お前を選んだ。もしも、あの頃に戻り、選び直せと言われても、私は私の『全て』を──お前を選ぶ。幾度でも。けれど…………」
「成程。それが、お前の悔いか」
「そうだ。それが、『地の底』にも遺し切れなかった私の悔いだ。────私は、私を知らない。ヒトならざるモノなのか否か、ナニモノなのか、私自身にも知れぬように、私は私を知らない。誰も多くを語ってはくれなかった。いや、語ってくれたのやもだが。人の声が遠い私に、それは届かなかった。私はどうも、父母の実の子ではないようなのだが、真にそうなのかどうなのかも私は知らぬし、だとするなら、何時、何処で生まれた、誰の──ナニの子なのか、それも知らない。どうして、緋勇の父母が私を育ててくれたのかも。それに、父母と私の間柄は、親子と言うよりは、緋勇の家に代々伝わる武道の師とその妻と弟子、と例えた方が相応しい間柄だった。……だから、お前も、江戸で巡り逢った皆も、私には掛け替えがなかった。私を見てくれる、私を想ってくれる、私に声を届けてくれる、家族よりも『家族』に思えた皆のことが。なのに、私は……。……幾度でも、私はお前を選ぶけれど。お前は、私の『全て』だけれど。それとこれとは、私の中では、少しばかり置かれている場所が違うから……」
──洗い浚い、何も彼も白状してしまえとの諭しに背を押され、余り抑揚の感じられぬ声の調子で龍斗は打ち明けを続けて。
だから、京梧は、彼の唇が動くのを止めた刹那、肩だけを抱いていた龍斗を、両腕で深く抱き直した。