九龍妖魔學園紀

『丘紫』

二〇〇四年の大晦日、所属する国際トレジャー・ハンターギルドのロゼッタ協会より届いた探索要請を受け、約三ヶ月、生徒として日々を過ごしてきた天香学園高等学校を、彼、葉佩九龍は去ると決めた。

人使いの荒い要請が舞い込んで来た翌日、二〇〇五年の元旦から、仲間達と賑やかで楽しくて忙しない冬休みを過ごしつつも、一人秘かに準備を進めて、その最中、一度は、誰にも何も告げずにここを発とうとの決心を固めはしたけれど、結局、大事な大事な人、皆守甲太郎にだけは、旅立つことと、その理由を告げよう、と思い直したりもして。

……そうして、誰にも内緒で進めた旅立ちの準備がすっかり整った、二〇〇五年の一月七日、金曜日。

真夜中。

数週間前から、夜毎、大事な彼と共に眠って来た、その大事な彼の部屋を、本当にこっそりこっそり、九龍は一人抜け出した。

一応は制服を着込み、男子寮三階の甲太郎の部屋を抜け出した九龍が向かった先は、温室だった。

彼曰くの、『秘密で素敵な開鍵グッズ』を使い、簡単以前に鍵を開け、中に忍び込んだ彼は、同級生の白木幽花がよく向き合っている小さな作業台の上から花鋏を取り上げると、夜目だけを頼りに、ドーム型の温室一杯に咲き誇る植物の間を掻き分けるように進んで、季節外れに咲いている、丘紫、という品種のラベンダーを、花束に出来るまで切り、手芸部の部室辺りから『拾って』きたらしい真っ白なリボンで纏めると、両手で抱え、そそくさと温室を出て、今度は、寮の裏手の墓地の森に向かった。

今はもうない、が、去年のクリスマス・イヴの夜までは確かにそこにあった《墓》の片隅に、本当に本当にひっそりと置かれた、真新しい、一つの墓目指して。

「……こんばんは。ラベンダーの先生」

────新月に程近い、細い、針のような月よりの光が、梢の切れ間から差し込むそこに立って、やはり『名』は刻まれなかった、事情を何も知らぬ者の目には、何かの記念碑に見えてしまうかも知れない墓石に、九龍は一人語り掛ける。

「お墓に供える花の定番は、菊とかだよなー、って思うんですけど。俺は名前も知らないラベンダーの先生は、やっぱり、この花が望みかな、って思ったんで。これで、一つ」

他には誰一人もおらぬのに、にこにこっと微笑んだ彼は、抱えて来た丘紫の花束を、墓石に捧げた。

「…………ええっと、ですね。ラベンダーの先生。……俺、甲ちゃんには絶対に内緒で、貴女に会いたかったんです。貴女に、言いたいことがあったんです。だから、少しだけ付き合って下さいね?」

すとん、としゃがみ込み、そっと花束を置いた彼は、そのまま己の膝を台に両手で頬杖を付いて、つらつら、独り言にも似た話を始めた。

「甲ちゃんが──ラベンダーの先生もよく知ってる、皆守甲太郎君が言ってたんですよ。貴女のこと、好きだったのかも知れない、って。愛してたのかも知れない、って。好きになる前に、愛する前に、貴女は逝ってしまって、好きだったのかも知れない、愛してたのかも知れない、そんな想いだけが、逝った貴女と自分の間にぶら下がってる、って。……でもですね。甲ちゃんは、貴女にも、貴女が甲ちゃんにあげた、何でかピントが合わなくて、顔もよく判らない貴女が映ってた写真にも、未練なんかない、とも言ってました。ラベンダーの先生のこと──貴女のこと、忘れられないし、忘れるつもりもないけど、貴女を好きだったのかも知れない、愛してたのかも知れないって想いだけは、もう、過去にしたいんだ、って」

墓碑名のない、真新しい墓石と、己が持参した花束を見比べつつ、九龍は唯ひたすら笑み続け、語り続けた。

「甲ちゃんが、貴女のこと、好きだったのかも知れないし、愛してたかも知れないみたいに、貴女も、甲ちゃんのこと、好きだったのかも知れませんね。愛してたかも知れませんね。……てぇか。ラベンダーの先生は、甲ちゃんのこと、好きだったんですよね? 愛してたんですよね? でなきゃ、甲ちゃんのこと、自分が守る、なんて言わないですよね。甲ちゃんに、『こんなこと』は自分で最後にしろ、って言って、自分で自分の胸、突いたりしないですよね。…………その、勇気と愛は、正直、凄いなー、って思っちゃってますよ、俺」

……何処までも、何処までも、唯、にこにこと笑んで。

彼は、ひたすらに笑んで。

「嘘じゃないですよー? 素直に、凄いなあ、なんて思っちゃってます。だって、それだけで、ラベンダーの先生は、ほんとーーー……に甲ちゃんのこと好きだったんだ、って判りますもん。愛してる人の目の前で、愛してる人の為だけに、自分で自分の命を捨てたら、そりゃ、一生残るインパクトでしょ? それを実行しちゃったラベンダーの先生は、一生、甲ちゃんの中に残るでしょ? ……それって、愛ですよね、愛。それくらい、俺にも判りますよ。人生経験値のレベルが滅茶苦茶低い俺でも、愛の形なんて人それぞれって、知ってますし、一応。………………でもですね、ラベンダーの先生。甲ちゃんは、もう、俺のものです。Get treasure ! って奴で、甲ちゃんの未来も人生も、俺が貰っちゃいました。……だからもう、甲ちゃんは、俺のなんです」

……もしも、真新しい墓石へ向けて九龍が掛け続ける独り言にも似た語りを聞く者がいたとしたら、辛辣な嫌味、若しくは、あからさまな嫉妬、と受け取っただろう言葉達を告げ切った彼は、すっと、面から表情を消した。

「……………………御免なさい。俺、すんごくヤなこと一杯言いました。ちょーっと、妬きもち全開の当て擦りだったですな。……でもですねー。勝手を言わせて貰っちゃいますと、俺の立場としては、妬きもちの一つも妬きたくなる訳ですよ。何処までも身勝手なんですけど、八つ当たりの一つくらいはさせて頂きたい訳ですよ。……あ、でもでもでも! 確かに俺、ラベンダーの先生にすんごい妬きもち妬いてて、いけないことだし、筋違いでもあるかも知れないって判ってても未だ未だ沢山当て擦りとか言いたいですし。甲ちゃんが『あそこまで』だってのは、ラベンダーの先生も知らなかったでしょうけど、いっくら何でも、あーーーー……んなに繊細さんな甲ちゃんの前で、自分から死ぬなんてーー! とかも言ってみたいですけど……っつーか言ってますけど。だからって俺、ラベンダーの先生のこと、嫌ってる訳でも許せない訳でもないですよ? 馬鹿ーー! とは言いたいですけどね」

面の色を褪せさせたまま、けれど裏腹に声の抑揚だけは豊かに、ごちゃごちゃと言い続けた九龍は、頬杖を付くのを止めて、代わりに、捧げたばかりの丘紫の花束のリボンを弄り始めた。

「俺は、昔の自分のこと何にも憶えてませんから。何にも知らない俺は、未だ未だ空っぽですから。空っぽな俺の中を、甲ちゃんが俺にくれる沢山のモノで埋めたいです。甲ちゃんは、俺に、沢山のモノを分け与えてくれる人です。俺にとって、甲ちゃんは、そういう人でもあるんです。……ですからね。そんな、今の甲ちゃんを作ってる『過去の一つ』なラベンダーの先生のことも、俺の中には溜まってく訳ですよ。ラベンダーの先生も、俺を埋めてくれる一つな訳ですよ。だから、俺、貴女のこと嫌いじゃないですし、嫌いにもなれません。……けど、それって、どんなに綺麗事並べてみたって、物凄く妬きもち妬いてて、言ってる俺自身、最低だな、って思う当て擦り、沢山ぶつけちゃった貴女を、どうしようもなくサイテーな俺の中に呑んじゃうってことで。……甲ちゃんが、忘れられないし、忘れるつもりもないって言った貴女のこと、それでも俺は、俺の腹の中で『溶かしちゃおう』って足掻き続けるってことで…………。…………御免……なさい……。御免なさい、御免なさい……。……ラベンダーの先生は、それでも許してくれますか……? 甲ちゃんに、甲ちゃんの未来と人生を下さいって言ったことも、引き換えに、俺の未来と人生を差し出すって言ったことも、こんな俺が、甲ちゃんの傍に、ずーっとずーっといようとすることも。ラベンダーの先生は、許してくれますか…………」

真っ白なリボンの結び目を、緩めてみたり縛り直してみたり、と幾度となく繰り返しながら、物言わぬ墓石に語り掛け続ける九龍の声は、何時しか、懇願に近い響きになっていた。

そんな声音で洩らした、

──ラベンダーの先生は、こんな俺を許してくれますか。

……との言葉を最後に、彼は口を噤んで。

それより随分と長い間、真新しい、物言わぬ墓石の前に踞ったまま、じっと、冷たい石と、己が捧げた丘紫の花束を眺めていた。