自身達の卒業式直後に起こった、本当に細やかな事件が穏便に解決して暫くが経った頃、京一と龍麻は、交わした約束通り、中国へと旅立って行った。

パスポートはこっそり取っておいたけれど、ビザ申請まではしてないし、一人暮らししてたアパートだって解約しなくちゃならないし、実家に事情を話す必要だってあるし、飛行機のチケットの手配だってこれからだし! と、龍麻がまことに現実的な問題提起をしたので、母校の体育館裏で京一が彼に告げたように、卒業式の翌週には、との運びにはならなかったけれど、二人が旅立ちを叶えたのは、一応は春の内だった。

湿っぽい別れになるのが目に見えていたからか、それとも思う処でもあったのか、言葉にこそしなかったものの、京一は、仲間達にすら旅立ちを告げたくない素振りを取り続けていたし、実際、誰にも告げようとはせず、龍麻も龍麻で、下手に引き止められたりしたら困るなあ……、と何となしに思った所為もあって、自らも知らん顔を決め込みつつ京一の好きにさせておいた。

それでも、何処から嗅ぎ付けて来たのやら、彼等の仲間の一人で、自分は龍麻の義弟、と勝手に決めてしまった劉弦月には中国行きを知られてしまって、彼等の旅は、一緒に行きたい! とねだってきた劉も加えての三人旅となり、揃って賑やかに大陸各地を転々としながら、あっちには何々の達人がいるー、だの、こっちには何々の達人がいるー、だのといった噂を仕入れてきては、腕試しに立ち合いを申し込む日々を彼等は送った。

…………慣れない土地で、路銀を稼ぐ為のバイトに明け暮れ、時には幾日も野宿で凌ぎながらも、望むことの為に望むまま放浪し、過ぎる程に気心知れている者達の顔を眺めつつ時と人生を費やすのは、本当に楽しいそれだった。少なくとも龍麻にとっては。

異国の言葉に苦労させられたこともあった、労働に疲れ果てたこともあった、ちょっぴりのホームシックに掛かったことだって。

無類の麺好きな京一に、来る日も来る日もラーメンばかりの食事に付き合わされて、劉と二人、心底辟易したことだってあった。

口論はしょっちゅうだったし、些細な行き違いを取っ組み合いの喧嘩に発展させてしまったことだって、数え切れないくらい。

龍麻と京一が喧嘩すれば劉が宥めて、京一と劉が喧嘩すれば龍麻が間に割って入って、劉と龍麻が喧嘩すれば京一が仲裁してと、そんな感じで、何とか彼んとかやり過ごすしかない瞬間とて多かったけれど、それでも、中国に渡ってよりの毎日を、龍麻は楽しく感じていた。

自分は生きているのだと、心から思えた。

一生懸命に、全力で、毎日と人生を生きているのだ、と。

未来に対する不安なんて、これっぽっちも覚えなかった。

京一と龍麻が恋人同士であるのも、高校三年の夏には既に結ばれていたのも劉は知っていたから、そちら絡みの気を遣ってくれもしたし、折に触れ、所謂恋人同士だけの時間というのを拵えるべく、ふらりと姿を消したりもしてくれて、義弟な彼の心配りに内心では恐縮しつつも龍麻は甘んじていたので、京一との関係に於ける最も私的な部分も上手くいっていて、故に余計。

龍麻と不安は縁遠かった。

────だが。

突然、楽しいだけの日々に、終わりがやって来た。

不安など感じる筈も無い、楽しいだけの日々に幕が引かれる切っ掛けを齎したのは、劉だった。

……旅を始めて三年目の秋だったか、冬だったか。

兎に角、野宿をするには向きでない寒い夜、それでも旅の資金を節約する為に、これぞアジア大陸の風景、としか言えない、だだっ広い草原の片隅を一夜の宿の代わりにし、三人で焚き火を囲んでいた最中。

「わい、日本に戻ろうと思うんやー」

と、突然、劉が言い出した。

………………どうして、とは思ったものの、京一も龍麻も、急な話であるのも、その理由も問わなかった。

「…………そっか。うん、判った」

「……ちょいと、寂しくなるな」

京一のそれとは又違う飄々とした笑みを湛えて、日本に戻る、それだけを告げてきた彼に、二人はそうやって返した。

劉には劉の思う処や考えがあるし、やはり、劉には劉の人生がある、そう思ったから。

だから、それより数日が経って、その頃彼等が放浪中だった某地方から最も近い国際空港のある街に到着した日、劉は、意思通り、日本へ戻って行った。

彼が日本へ戻ってしまったから、当然、旅は、京一と龍麻の二人連れになった。

…………二人旅が始まったばかりの頃は良かった。

例え性別を同じくしていても、彼等とて恋人同士、好き合った相手のみが道連れの旅は、ほんの少しだけ特別なものに思えた。

何をしていても二人だけ。……それに、浮かれた日もあった。

冬の夜、互いの温もりだけで寒さを凌ぐ時も、遠慮なく体を寄せ合えた。

以前はやはり、自分達の本当の関係を知る劉の目があったから、暖を取る為だけに引っ付くのにも、照れのような遠慮のような、一言で言えば後ろめたい何かを感じたけれど、そんな必要もなくて。

人一倍賑やかで、喜怒哀楽も激しい彼の姿が消えてしまったことに寂しさは感じても、それ以上は何も齎されなかった。

けれど……京一と二人きりの毎日が始まって一月ひとつきが経ち、二月ふたつきが経ち、数ヶ月、半年……と相成った頃、龍麻は、それまで感じたことの無かった不安を覚えた。

職業不定、としか言い様のない自分達の今や、清貧と例えれば聞こえはいいが、貧乏、の一言で表せる懐具合に不安を覚えたのではない。

その頃でも、龍麻は、自分達の今は自分達が望んだ今で、望んだ日々で人生だ、と言い切れた。

でも、それでも彼は、漠然と言うなら将来とか未来とかいうモノに不安を感じた。

俺と京一の先行きは、何て不透明なんだろう、と折に触れ思うようになった。

────別に、安定した老後なんてものを望んでる訳じゃない、人様に後ろ指差されずに済むような仕事を得たい訳でもない、貧乏な生活に疲れた訳でもない。

……そうじゃなくて。

そうではなくて……、京一と俺は、何時まで、こんな風に生きていけるんだろう。

何時まで、こうして肩を並べていられるんだろう。

そして、何時まで、恋人同士でいられるんだろう。

…………それが、龍麻が覚えた、『将来』に関する不安だった。

二人揃って望んでいる限り、こうして生きていける、と信じてみても、その『将来』は不透明だった。

────京一が好きだけど、愛しているけれど、自分達が恋人同士になったのは、所詮気の迷いなんじゃないかと、未だ高校生だった頃から、龍麻は秘かに疑い続けてきた。

否、正しくは、気の迷いかも知れない、と疑っていたかった。

……自分達は男同士で、世間様から見れば若年ホモ。

それが、京一と付き合い始めた頃から、ずっと龍麻の中に根を張っているモノの一つで、世の中から爪弾きにされてもおかしくない現実も忘れ、若さのみで結んでしまったような関係など、何時か必ず終焉を迎える、と彼は思い込んでいる。

そんな風に酷く後ろ向きなことを思い悩む度に、知ってか知らずか、京一が、「俺は、そんな風に考えたことなんて一度だってない」と言わんばかりの態度を取ってくれたから、その都度、後ろ向きな想いは流し去ってきたけれど、京一と付き合い出してから高校を卒業するまでの数ヶ月、繰り返し繰り返し考えては思い悩んだそれを、今でも龍麻は抱えていた。

いいや、自分は未だに、酷く後ろ向きな考えを抱え続けていたのだと、劉との別れを切っ掛けに思い知らされた。

意識せずに済んでいただけで、己が未だにそんなことを思い煩っていると思い知らされたが為、彼は、逆説的だが、『将来』に対する不安を覚え、その不透明さが怖くなった。

…………家庭が築ける訳でもなく、子孫を残せる訳でもない自分達は、世間用に拵えた、友人同士、との仮面を被り続けながら、世の中を騙して生きていく他なく。

何も築けないのに、何も残せないのに、己達の想いのみで結ばれた際の若さや無鉄砲さは、年月と共に失われていく。

失われる若さや無鉄砲さの代わりに得られるのは、老いや大人の狡さで、老いても、狡くなっても、若かりし頃のまま、好きだの愛してるだのと、言い合えるとは思えない。

況してや、こんな生活を二人揃って続けていけるなんて。…………と、何時しか、そう感じぬ日はなくなるまでに、彼はやがて思い詰め。

彼等が、修行の旅を始めてより五年目の春を迎える直前。

「……あのさ、京一。その……一度、日本に帰りたいかなあ……、なんて……」

一寸した気軽な提案をする感じで、龍麻は、思い切って京一に言った。

「日本に? あー……、まあ、五年も帰ってねえしな。……じゃ、久し振りに帰るか」

どうして? とか、何で急に? とか、様々に問われると彼は思っていたのに、京一は、至極あっさり、日本に帰りたい、と言い出した彼へと頷いた。