時代からも流行りからも取り残されて久しい、古びた携帯電話の液晶画面に浮かび上がった番号は、京一のそれだった。

彼同様、来る日も来る日も、朝から晩まで顔付合わせていた当時のままの番号。

掛かって来たのは、就寝前を狙ったのだろう真夜中に近い時間だった。

中国と日本の時差は一時間だから、あちらも真夜中に少々だけ近い頃合いの筈で、「ああ、京一からの電話なんだ。高校の時みたいだなあ……」と妙な感慨に浸りつつ、やけにうるさく鳴り続ける携帯を暫くの間眺めてから、やっと、龍麻は通話ボタンを押した。

『ひーちゃん?』

「うん、俺。やっほー、京一」

『……おう。──良かった。番号替えちまってたら、どうしようかと思ったぜ』

「そう思ったなら、もしもし、くらい言え」

『それは、ほら。何つーか。……予感っつーか?』

「予感じゃなくて、野生の勘だろ。……で?」

『帰るかなー、と思って』

何時いつに?」

『明後日』

「………………お前さー。せめて、一週間くらい前に連絡して寄越せって。俺にだって都合があるし、今は実家にいるんだよっ」

『そう言われちまうと、ちょいと言い返せねえけど、明後日帰るからって、どうこうって訳じゃ──

──ああ、もういい。うるさい。常識知らず」

『……常識知らずって、お前な…………』

「本当のことだろうが。──兎に角。飛行機の到着時間が判ったら、直ぐに、もう一回電話して来い、馬鹿。俺は東京駅まで行くから、お前も、成田から東京駅目指すように。空港までは行ってやらない」

『…………ふーん。俺と、逢う気はあるってか?』

「……あるよ」

『どうして?』

「………………俺とお前って、未だ、別れた、とは言えないだろう……? 中途半端なまま、五年も経っちゃって。……だからさ、どうするにせよ、何とかはしなきゃいけないと思うし。お前がこっち帰って来るって言うなら、機会って奴なんだろうとも思うし? お前だってそういう腹積もりで電話掛けて来たんだろう? わ・ざ・わ・ざ」

『まあな』

「だと思った。──じゃ、京一。明後日に、東京駅で」

『へ? あ、おい、ひーちゃ──

子供の頃からの己の部屋の直中に、勢い正座しながら出た電話で龍麻が京一と会話した時間は、五分にも満たなかった。

しかも彼は、京一よりのそれを一方的に叩き切った。

五年間、声すら一度も聞かなかった、別れたとは言い切れない恋人ひとからの電話だったのに。

語らった時間も、内容も、何も彼もをあやふやにしたまま道を違えた者同士のそれとは言えず……、でも。

それは見方を変えれば、彼等の間に横たわった時間も距離も、一瞬にして消え去ったも同然、と言えなくもなかった。

だけれども、まるで真神学園に通う高校生だったあの頃を甦らせたかの如くに京一と語らって、五年振りの再会を約束しても、龍麻の中には、いまだ、中国よりの帰国を決めさせた、あの煮詰まり切った悩みが存在したままで、五年前の春、無人の母校に忍び込んだ際に彼が京一に告げた、「別れるか別れないか、自分にも能く判らない」との『答え』にも、変化は無かった。

……結局の処。

携帯電話越し、五年振りに京一の声を聞いた時、咄嗟に、このままではいけない、自分達はけじめのようなものをきちんと付けなくてはいけない、と思ったから。

でなければ、京一に申し訳が立たない、とも思ったから。

あんな風な態度を取りつつも、彼は、半ば勢いと衝動に任せ、京一との再会を取り付けただけだった。

逢ったとて、何をどうするつもりも無いのに。

何も、変わりはしないのに。

両親には、どうしても行かなきゃならない用事が出来たから、とだけ告げ、バイト先には頭を下げて急な休みを数日貰って、京一が日本に戻って来ると言った日、龍麻は新幹線に乗った。

あの電話が掛かって来た翌日、京一からの再度の電話は無かったが、代わりに届いたメールには、『午後七時過ぎに成田に着く便に乗るから、十時頃には東京駅に行けると思う』と簡潔に綴られており、「夜の十時だぁ? ふざけんな」と悪態吐きながらも龍麻は、待ち合わせ場所を指定しただけの、やはり簡潔なメールを叩き返して────当日。

午後十時。

東京駅の、中央本線高尾行き方面乗り場──一、二番線ホームの最後尾に、彼は立っていた。

どうせ京一のことだから、昔のまま遅刻魔なんだろうと、適当に荷物を詰めた小さな鞄を足許に放り投げ、仕事帰り故の疲れた顔しつつオレンジ色の電車に乗り込んで行く人々を、ぼんやり眺めながら。

未だ四月上旬だけど、東京は俺の田舎よりも断然暖かい、って言うか、そんなことすら忘れ掛けてたな、とその季節の東京の町中を行くには少し厚過ぎたコートのポケットに両手を突っ込んで、ひたすらに、視線を彷徨わせること暫し。

ぼう……っと佇んでいたそこの真後ろの階段を登って来た男──京一に、トントン、と彼は肩を叩かれた。

「よう」

「…………よ」

振り返り、五年振りに己が目で見た京一は、実年齢相応の顔付きになっていて、一人になってからも、龍麻や劉と共に過ごしていた頃のような放浪生活をしていたのを証明している、そういう意味で草臥くたびれた格好をしていた。

真冬の支度に近い支度をしている為に、周囲の者達からは少々浮いてしまっている龍麻よりも尚、悪い意味で目立つ風な。

そのくせ、態度や表情だけは昔通りで、余りにも短過ぎる一言のみを五年振りの再会の挨拶代わりにしてみせた彼へ、龍麻も、短く言い返す。

「飯食った?」

「未だ」

「何か食い行くか?」

「今は要らない」

「じゃ、どうする?」

「取り敢えず、お互いに一番勝手の判る新宿辺り目指すのが無難かと」

それからも、中央線のホーム最後尾に突っ立ったまま、彼等は互いの面を覗き込む如くに見詰め合って、けれどブツ切れの言葉だけをぶつけ、発車時間を迎えた電車に乗り込んだ。

東京駅から新宿駅に至るまでの約二十分間、ドア近くに居場所を確保した二人は、黙って窓の外を眺めるのみで、双方無言を貫いた。

五年振りに新宿駅に降り立ってからも、二人の間の無言は保たれ続け、目と目も交わさぬ彼等の足先は、自然と母校へ向いた。

もう新学期が始まって数日が経っていたが、流石に午後の十一時を少しばかり越えたその頃合い、振り返れば十年も前に卒業してしまった学園は、五年前に訪れた時以上にひっそりと静まり返っており、けれど躊躇うことなく彼等は正門を乗り越え、闇に包まれた学園の中を辿る。

一昔前になってしまったあの頃も、真夜中、幾度も学園に忍び込んだけれど、あの頃は、人気が絶えたのをいいことに、旧校舎での修行を終えた京一や皆と、ぎゃあぎゃあ騒ぎながらここを通った、と今宵は素直に懐かしく思い出せた学生時代を胸の中で振り返りつつ、龍麻が、だんまりを続ける京一と二人、向かった先は。

やはり、体育館裏の桜の木の下だった。

十年前、一緒に中国へ行こうと、京一と二度目の約束を交わしたのも、五年前、一人日本に残ると彼に告げたのもその場所だったから、再会してより一時間以上も続けてしまった沈黙を互いに破り、その果てに何かを語らうにしても、少なくとも龍麻には、そこ以上に相応しい場所など在ろう筈も無く。

そしてそれは、京一にも共通する思いだったらしい。

「…………今年は、丁度満開だな」

龍麻の足先が何処に向けられているのか判っていて、大人しく付いて来た彼は、辿り着いたそこで桜の木を見上げつつ、久し振りの花見だ、と笑いながら独り言を呟き、さっさと、根元に腰下ろして胡座を掻いた。

「ああ、丁度。…………卒業式のあの時は、未だ三月頭だったから桜なんて論外だったし、五年前のあの時は、五分咲きくらいだったっけ」

とっとと、長丁場でもどんと来い、な姿勢を作り上げた京一に、チロ……っと見上げられ、目でのみ促され、仕方無し、彼と並んで座り込んだ龍麻は、小さな子供が能くするように両腕で己の足を抱え込み、揃えた膝の上に、チョン、とおとがいを乗せる。

「そーそー。卒業式の時は到底、五年前も、花見って感じじゃあ無かったっけな。……って、それよりも。────なー、ひーちゃん」

「……んー?」

「あれから五年……いや、コーコーの頃から数えりゃ十年も、か。…………十年、経ったよな。最初の五年、俺と毎日ツラ付き合わせて。次の五年、話の一つもせずにいて。……十年。ちったあ、煮えた頭冷めたか?」

本当に小さく背を丸めて、折角の満開を迎えた桜で無く、夜空の色を写し取った地面ばかりを見詰める龍麻とは逆に、毎度の竹刀袋を肩に預けつつ抱き込み、薄紅色の花だけを見上げながら、京一は、そんなことを言い出した。