「……やっほ、京一」
────親友の母の足音が聞こえなくなったのを確かめてから、龍麻は、ひょこひょこと部屋を横切り、京一の眼前にストンとしゃがみ込んだ。
「ちょっぴり、久し振り。元気……にはしてなかったみたいだけど、一応、元気そうだね」
そのまま彼は、膝の上で頬杖を付いて、親友の顔を不躾に覗き込む。
俯き加減の面は、何時如何なる時でも最大の関心事はオネーチャンのスカートの中身である彼らしくもなく、酷く暗く歪んでいて、血色も余り良くなく、瞳の色も微かに虚ろで。
これはもしかして、物凄く深刻な状態なんじゃないだろうかと、龍麻はやっと、多少だけ脳裏の煩悩を抑え込み、が、あくまでも気楽な風を装った。
「連絡もしないで押し掛けちゃって、御免。でも、あれから電話も繋がらなかったからさ。皆も、京一と連絡取れないって言ってたし、今日の始業式にも出て来なかったから、どうしたのかなって思ったんだ。風邪でも引いて、寝込んでるのかな、とか。……で、様子見に来たって訳」
目の前を占めても、自分の方を見ようともしてくれない彼の、言外の訴えを無視する風に、彼は話し掛け続け、
「……大丈夫だから。放っといてくんねえかな」
すれば漸く、俯き加減のまま、視線を合わせようともしない彼から、とても低い声の、突き放すような言葉が返った。
「全然、大丈夫には見えないんだけど」
「…………大丈夫だって言ってんじゃんよ」
「でも、僕には、今の京一はそんな風には見えないよ。心配で、放っとくなんて出来ない」
「心配? 俺は大丈夫なんだから、心配なんてしなくたっていいだろ。お前が心配しなきゃならねえようなことなんか、一つも起きてねえだろ」
「それは……京一に何か遭ったのかとか、それは僕には判らないけど……、でも、何か遭ったんじゃないの? 小母さんに聞いたよ。『あれ』から、京一が部屋に引き蘢っちゃってた、って。今日の始業式だって──」
「──お前だって判ってるだろ。元々、俺は煩わしいのは嫌いだって。やっと、戦いの全部にケリ付いたんだ、一人で籠っていたくもなる。ガッコだって、何時ものサボり癖が出ただけだ。……頼むから、放っといてくれ。無視しときゃいいだろ、俺のことなんてっ」
「…………心配しないでいるのも、放っとくのも、無視するのも、出来ない」
「気にすることねえだろ、俺がそうしろっつってんだから」
「あのね、京一……」
そんな喋り方をされたことは、そんな態度を取られたことは、未だかつて一度も無く、「一体、京一に何が遭ったのだろう……?」と、心秘かに戸惑いながら、龍麻は言葉を掛け続けてみたが、京一の態度や語調が変わることはなく、つい、彼は溜息を零した。
「言いたいことはそれだけか? なら、帰ってくれ。放っといてくれよ、鬱陶しいっ」
思わずの溜息を、呆れ故と受け取ったのだろうか、苛立った風に、京一は今度は、声を荒げる。
「…………判った。なら、今日は帰るけど、京一が元に戻るまで、何度でも来るから」
「だから……──」
「──僕が鬱陶しいのは、何時ものことだと思うけど? しつこいのも知ってるよね」
けれども、当人の弁通り、一度、こうと決めたら、しつこくて鬱陶しくなるのも己の『売り』の一つではある、と思い込んでいる龍麻が、引き下がる筈はなく。
「……確かに、お前はしつけぇよな。俺に関しては…………」
肩を落としながら溜息に似た息を吐いて、苦笑いを浮かべた京一は、
「明日も明後日も、押し掛けられちゃ堪らねえからな」
ボソっと、そう呟いて、ポソポソした声での話を始めた。
幼馴染み。
……確かにそう呼べる相手が、かつて、京一にはいた。
幼馴染みと彼との出会いは、幼稚園にまで遡れる。
小学校も中学校も、同じ公立校に通った。
幼稚園と言う場所で出会った程、彼等の自宅は近く、親同士も知り合いだったから、その頃から毎日のように共に遊んで、クラスまでは同じにならなかった小学校や中学校でも、彼等の友情はずっと続いた。
…………一番の、友人同士だった。
成績その他、諸々の都合で、京一は真神学園へ、幼馴染みは天龍院へと、進学する高校は分かれてしまったけれど、自宅は目と鼻の先、高校の所在地とて双方同じ新宿区内、幼稚園児だった頃同様、共に肩を並べて遊ぶには、何一つ困らなかった。
京一も幼馴染みも社交的なタイプだった為、進学して直ぐ、それぞれ高校の友人が出来て、又、その数は互い決して少なくなかったから、毎日顔を突き合わせることは無くなったけれど、折に触れ、都合を合わせては出掛けたりもしていた。
何時会っても、話は尽きなかった。
────そう、あの日も。
一九九七年の、晩秋のあの日も。
……あの日、京一は、やはり幼稚園の頃から通い続けている剣道場に行こうとしていた。
小学生の時、後に彼の剣術の師匠となった男に巡り逢い、修行を共にして以来、京一の足は遠退きがちだったけれど、それでも月に一度程度は顔を出していて、偶々、その『月に一度』に当たっていたあの日、道場の前で、高校の友人と遊びに行く途中だった幼馴染みと行き会った。
そして、やはり偶々、互いの都合が中々付かず、その年の夏休みが終わってより面と向かって話をする機会を得られずにいた彼等は、勢い立ち話を始めてしまい、その日より約二週間後の日曜日、久し振りに出掛ける約束を交わした。
だが、やって来た約束の日。
幼馴染みは、待ち合わせ場所に来なかった。
連絡の一つも入れずに。
……互い、今日日の高校生、PHSは所有していたし、何か遭ればそれに連絡を入れるのを彼等は常としていたし、それを使っての深夜の与太話は頻繁だったのだから、遅刻の連絡も、断りの連絡も幼馴染みがしてこなかったのは、能く能く考えれば有り得ないことだったのだが、京一は、あの時、「何か用でも……」と思ってしまった。
理由も無しに、あいつが連絡も入れずに約束をすっぽかす筈が無い、と。
何か、事情があるのだろう、と。
だから、後日改めて、あの日はどうしたんだ? とでも聞けば済む、とも。
でも、京一は、以降、幼馴染みとの連絡を取らなかった。
………………忘れてしまったのだ。
約束の日、約束の場所にやって来なかった幼馴染みに、連絡を入れることを。
幼馴染みが約束を破ったことを。
幼馴染みの存在、を。
それまでの人生の大半を共にしてきた大切な幼馴染みを、何故か、存在ごと忘れ去ってしまって、一年後。
日本最大の龍脈に絡む陰陽の戦いが、大分きな臭くなって来た頃。
龍麻と交わした会話や遊びの約束から、ふと、本当に薄らぼんやり、京一は、自分は何かを忘れてしまっているのではないか、と思うようになった。
だが、果たして自分が何を忘れ去ってしまっているのか、皆目見当も付かなかったし、既視感
丁度、只でさえきな臭くなって来た異形との戦いが、その頃より苛烈且つ忙しなくなり始めもしたので、思い過ごしかも知れない『些細なこと』に、何時までも拘っている暇など彼には無かった。
己自身、五日も仲間達の前から姿を晦まさなくてはならない羽目になったり、クリスマスを目前にした頃は、龍麻が、柳生崇高に斬られ生死の境を彷徨ったり、異界に飛ばされてしまったりとしたから、柳生との最終決戦を迎えたあの時には、もう、自分は何かを忘れ去ってしまっているかも、と思ったことすら、京一は失念していた。
……しかし。
どうしても思い出せない、忘れ去ってしまった『何か』が何で在ったかの答えは、呆気なく、彼の手の中に転がってきた。
────己達にとってだけでなく、現在
自分には、どうしても思い出せない、忘れ去ってしまった『何か』が在ることを。
その『何か』は、大切な幼馴染みだということを。
………………そうして、それを思い出したから。
否、思い出してしまったから。
今。
自分達は──自分は、現世への黄龍降臨を防ぐ為、忘れ去ってしまっていた間に柳生の手によって陰の黄龍の器と化さされ、眼前に立ち尽くす大切な幼馴染みだった彼を、斬り捨てなくてはならない。
想い巡らし、戸惑い躊躇う猶予すら与えられぬままに。
────その現実に、彼は気付いた。