自分には大切な幼馴染みがいたこと、が、恐らくは柳生の外法の所為で、幼馴染みに関する記憶も、存在そのものも忘れ去っていたこと、忘れ去ってしまっていた彼が、陰の黄龍の器だったこと。

……それを、龍麻に向け急くように語って、ふらっと立ち上がった京一は、窓辺に寄り、サッシを開け放った。

途端、真冬の冷たく乾いた風が、何処となく澱んでいたその部屋を席巻して行った。

「…………ここから、あいつの家が見えるんだ。それくらい、近所だったんだぜ。小学校の一年の時だったかな、ガッコの理科の授業で糸電話作らされてさ。試してみようぜ、って。……そんなことまで出来た。中学卒業するまで、いっつも二人で馬鹿やってた。俺にも、あいつにも、ダチは沢山いたけど、本当の友達は、あいつだけだったかも知れない」

叩き付けるように吹き込んで来た風が目の中に入ったのか、何かを堪える感じで京一は忙しない瞬きを繰り返しながら、窓辺に立ったまま、誰に聞かせるともなく、幼馴染みとの思い出を語り始める。

「高校になったら、俺は真神、あいつは天龍院って分かれちまったけど、それからだって、あいつとの仲は変わらなかった。俺が剣道大会に出場する時とか、いっつも顔出してくれたっけ……。お互い、ガッコの付き合いとか色々出来たから、ガキの時みたいに年中一緒に遊んだりはしなくなったけど、夏休みとかに、同じトコでバイトしたりもした…………」

「……そっか…………」

「それくらい仲良くて大切だった奴のこと、俺は忘れちまってて。でも、寛永寺で『陰の黄龍の器』のツラ見た時、全部思い出した。あいつのことも、あいつと俺の仲も、ガキの頃からの思い出も、あの日、あいつが待ち合わせ場所に来なかったことも。まるで、記憶を何処かに落っことしたみたいに、あいつのことを忘れてたのも。…………酷ぇ話だよな」

余り通りの良くないトーンで語られた、京一と幼馴染みとの思い出話はそんな所に辿り着いて、酷い話だと、吐き出すように呟いた彼の声は、酷く歪んだ。

「でも、京一、それは──

──お前の言いたいことは大体判るから、言わなくていい。……俺にだって解ってる。理屈では解ってる。柳生崇高の所為だって。あの野郎が、外法なんかで、あいつを陰の黄龍の器に仕立てた所為で、俺だけじゃなくて、あいつのこと知ってた誰も彼も、あいつを忘れちまってたんだろう、って。…………あいつを思い出せたのは、俺だけかも知れない。思い出せただけ、俺はマシなのかも知れない。……そういう風に考えようって、何日か前には思ってみたりもした。だけど、そんなん、あいつにとっちゃ、言い訳にしかならねえじゃねぇかよ」

「……京一。そのことで、自分を責めてみたってどうしようもないってことも、解ってはいる……よね……?」

歪んだままの声で、自身にはどうしようもなかったことを悔やみ続ける京一を、龍麻は思い留めようとした。

例え、彼の中では、どうしようもなかったこととは済ませられぬとしても、それは本当に、どうしようもないことでしかない。

彼の気持ちは龍麻にも判っているけれど、京一にはどうしようもなかったことで、責められるべきは柳生崇高以外の誰でもないとしか、龍麻には受けれなくて。

「…………だから……────。お前の言いたいことは大体判るから、言わなくていいっつったろ? それにな、ひーちゃん」

けれども、京一から返ってきたのは、何処となく呆れているような溜息だった。

彼が何に呆れているのかまでは、龍麻には判らなかったけれど。

「……何?」

「もう、心の中の何処かで、あいつのことを忘れちまってたのは、俺にも、何となくだけど割り切れ始めてる。仕方のなかったことだ……、って。忘れたくて忘れた訳じゃないから。忘れようなんて思ったことも無いから。存在すら忘れてた、でも思い出した、幼馴染みのあいつのことを、あの時、咄嗟に天秤に掛けちまったことだって、腹に飲み込めない訳じゃない。もう、自分が何処の誰なのかすら判らなくなっちまってたあいつのことや、あいつの命と、ひーちゃん達や俺自身や、俺達の大切なモノとを秤に掛けちまったのも、多分…………多分、俺にはどうしようもなかったことなんだって、そう思わなくなくもない。………………だから、そうじゃなくて……。────…………俺は。俺は、あいつのこと思い出した時。たった今思い出したあいつが、陰の黄龍の器だって知った時。咄嗟に、どうして思い出したんだ、って思ったんだ。こんなことなら、ずっと、一生、死ぬまで、あいつのことを忘れてれば良かった。その方が良かった。思い出したくなんかなかった。今直ぐ、もう一度、忘れられればいいのに、って。思っただけじゃなくて、願いまでしたんだ。こんな想いするくらいなら、あいつのことを忘れたいって。……俺は、それが一番許せないんだ。てめぇでてめぇが許せない…………」

…………そうして、そのまま溜息を深くし。京一は、窓枠を指先が白くなるまで両手で掴んで、深く深く、俯いてしまった。

「………………それだって。京一の所為じゃないと思う」

それでも、丸められた彼の背へ、龍麻は、そう言った。

歪められたままの京一の声と、それまでと何ら変わらぬ彼の声は、酷く対照的だった。

「そんな訳あるかよ。そればっかりは、俺の所為だ。……俺が思ったことだ。俺が願ったことだ。柳生の野郎に、未来も、人生も、存在まで奪われて。俺だけじゃない、あいつのこと知ってた全員、あいつを忘れちまって、多分、思い出せたのは俺だけで、だってのに! もう一遍忘れ去られたいなんて、思われる方は堪ったもんじゃねえだろっ。……一度目の時は、あの野郎の所為だって、言い訳出来るけど。他の誰でもない、俺が自分で願ったことだ。俺以外の誰の所為だって言うんだよ。…………本当に大切な幼馴染みだったのに。ガキの頃から去年の秋までの俺の思い出には、何時だってあいつがいるのに。最低以下だろ、そんなの!」

余りにも淡々と、龍麻が、それも又、仕方のないことだと言うから、又強く吹き込んで来た、冷たく乾いた冬の風に乗せるように、京一は怒鳴った。

「……ま、何をどう言ってみたって、ひーちゃんには解りもしねぇんだろうけどな……」

「うん。解らないよ」

が、一転、どうせ、お前には解りっこない、と小さく呟かれた京一のそれを、龍麻は座ったまま親友を見上げつつ、あっさり肯定する。

「僕には多分、そういう気持ちは解らない。真神に転校するまで、友達って呼べる相手は一人もいなかったから、僕には解らない。解ってあげられない」

「…………え?」

解らないよ、の一言よりも、尚あっさり告げられたそれに、京一は、俯かせていた顔を上げた。

「新宿に来るまで、僕には、友達なんていなかった。当然、幼馴染みなんて相手も、僕にはいない。養い親との関係も、お世辞にも良好なんて言えなかったし、今でも悪いまま。僕の過去むかしの中に、僕の大切な人は一人もいない。…………僕だって、一人でここまで大きくなったなんて思ってない。新井先生や鳴滝さん達が気にしてくれたから、関係は最悪でも養父母が育ててくれたから、無事に育ったってことくらい、判ってるけど。僕には、京一が幼馴染みの彼を想うみたいに想える相手はいない。僕にいるのは、京一や、仲間になってくれた皆だけ」

「……ひーちゃん…………」

「だから、悪いけど、京一の気持ちは解らない。……想像は出来るよ。京一が辛いのも解るよ。でも。うんと小さい時からずっと一緒だった、どんな思い出の中にも登場して来るような大切な相手が、どういう存在なのか僕には解らないから、解る、なんてお愛想も、下手な慰めも言えない。こんなこと、こんな風に言い切っちゃう辺り、自分でも、僕って歪だなあって思うけど、京一に嘘言ったって仕方ないから。僕は、本音を言うよ」

「…………そう……だな……。下手な慰め言われるよりゃ、きっぱり言われた方が、遥かにいい」

「……でしょ。京一は、そういうタイプだもんね」

何処までも酷くあっさり、龍麻は自分の考えを言い切り、土産の紙袋の中からバナナの房を取り出すと、二本もぎ、一本を強引に振り向かせた京一へと渡してから、自分の分を剥き始める。

「で、本音序でにもう一つ。『大切な幼馴染み』はいないから、そういうことは解らないけど。大切な相手や、大切だった相手を想う気持ちくらいは、幾ら何でも僕にだって解る。僕にも、大切な相手のこと、想う気持ちはあるよ。……だからね。京一にはどうしようもなかった、京一は何にも悪くないことで悩んで、何時までも引き蘢ってないで欲しい、って言うのが、今の僕の希望。早く吹っ切って元気出して欲しいって、そう思う。────じゃあね、京一。今日は帰る。邪魔して御免ね。でも、話、聞かせてくれて有り難う。……あ、そうそう。明日

未だ若干熟れの足りない、何故か、何処となく人工的な印象を抱かせる綺麗な形のそれを、とっとと食べ終えると彼は立ち上がって、手渡されたバナナと龍麻の顔を見比べ酷く戸惑い始めた京一へ、バイバイ、と手を振り、部屋を出て行った。

食えとでも言うのかと、持て余すしかない黄色いそれを見詰めて渋い顔をし、去り際、何となくドスの効いた声で、力込めながら、明日、と言った彼の科白を思い出して再び渋い顔をし、暫し考えてから、ボサッと持っていても仕方ないと、バナナを袋の中に戻そうとした京一は、袋の底に押し込められていた、茶色い紙袋を見付けた。

何だろう、と引き摺り出し確かめてみたら、中身は、某エロ雑誌の最新刊で。

「……あの、馬鹿…………」

彼は、力無く笑った。