わざわざ玄関まで見送りに来てくれた京一の母に、お邪魔しました、と明るく告げて、真っ直ぐ一人暮らし中のアパートに帰った龍麻は、鞄と、脱ぎ捨てた制服の上着を、ボスン、とベッドに投げ付けた。

──先程、京一に告げた通り、彼と彼の養父母の関係は酷く悪くて、高校二年の三学期、鳴滝冬吾が彼の実家に赴き、東京の新宿にある真神学園高校に龍麻を転校させたいとの説得をした際も、養父母は、是とも非とも返そうとはしなかった。

そんな彼等をチロリと横目で見ながら、ああ、他人様の前でも始まっちゃった、僕に対する無関心っぷり、と龍麻は内心でゲッソリしていたが、鳴滝だけは根気良く説得を続けて、やがて、龍麻自身がそうしたいと言うなら自分達はそれで構わないが、だからと言って、東京の、しかも新宿での一人暮らしをすんなりと送らせてやれる程の経済力は無い、との本音を養父母から引き出した鳴滝は、生活や学費の面倒は自分が見るからと申し出て、彼等の首を縦に振らせた。

故に、彼が住まう、六畳有るか無いかの一間だけのアパートは、鳴滝が借りてくれたもので。

鳴滝は、もっと広い部屋を望めば良いのに、とも言ってくれたけれど、贅沢を言うつもりなど龍麻には毛頭無かったから、

「大丈夫です。六畳一間から始まるサクセス・ストーリーです」

と、訳の判らぬことを言って彼を黙らせた日より、そこは、彼だけの『小さなお城』になっており。

その、ベッドなど置いたら、寛ぐ場所はその上しか無くなってしまうような『お城』の隅に、フン、と拗ねた声を洩らしつつ、龍麻は座り込んだ。

「なーんか、言わなくていいことまで言っちゃった気がするけど、もう、取り返しは付かないし……」

そのまま、安いパイプベッドの上に突っ伏して、彼は、今度は溜息を吐く。

先程、京一に告げた通り、彼に嘘を吐いた処でどうにもなりはしないし、京一の体験と、陰の黄龍の器に対面した刹那の彼の心情は、客観的に見て、慰めの言葉も見付からないくらいのことだったから、余計、下手な言葉を並べ立てるつもりにはなれず、だから、心からの本音のみを言い残してきたけれど。

言葉が過ぎたかも知れない、と思わなくもなく。

又、言うにしても、もう少し言い様があったような気がする、とも思わなくもなく。

「あーーー、しくじったかもぉぉぉぉ!」

整えられているベッドの上の枕を、彼はぶっ叩いた。

「でもさあ……。でもぉぉぉ……」

顔立ちも体躯も中性的で、傍目には、とてもそんな風には見えないが、『秘拳・黄龍』を何発も放てる立派な武道家に八つ当たりされ、中心からくの字にひしゃげた枕を、彼は今度は抱き締める。

────あの時、龍麻は、酷く淡々且つあっさりとした声と態度で京一とやり取りしたけれども、実の処、余り冷静とは言えなかった。

いや、若干、頭に血が上っていた、と言った方が良いかも知れない。

真神への転校初日、きっぱり恋心を抱いた京一に、大切な幼馴染みがいたのだと、彼自身の口にて知らされた時から、ずっと。

──養父母は、自分にとって、大切な人達には成り得なかった。

友達もいなかった。幼馴染みも、勿論。

淡い恋心を寄せた人、想いを傾けた人、そんな者達がいなかった訳では無いけれど、全ては、夢と想像の中で終わった。

真っ当に自分の相手をしてくれたのは、友人となり、仲間となりとしてくれたのは、東京の街で巡り逢った彼等だけ。

初めて、胸を張って、友人だと、親友なのだと言えるようになった相手は京一だった。

絶対に振り向かせてみせる、と心に誓う程に想った相手も、彼が初めて。

……でも、そんな『想いの君』には、幼馴染みがいて。

理想は兎も角、現実だけを冷静に見詰めれば、男の自分になど振り向いてもくれないだろう彼の幼馴染みは、彼にとって、大切な大切な友人だったのだと思い知った。

彼には──京一には、そこまで言い切れる大切な相手など、自分や自分達以外には、有り得ないと信じていたのに。

────……そう、京一の口から、大切だった幼馴染みの話を聞かされた時。

龍麻はそんな風に思って、陰の黄龍の器だったあの彼に、秘かに嫉妬した。

咄嗟に、どうして今まで、その幼馴染みの話をしてくれなかったの、とも思ってしまった。

自分と出逢った時、既に京一は例の彼のことを忘れてしまっていたのだから、それこそ、こんなこと思ってみたって仕方なさ過ぎると頭では解っていたが、何故か、あの彼に負けてしまった気もして…………、だから。

ともすれば、自分が大切だと思うのは京一だけだから、京一の大切な幼馴染みのことなど、どうだっていい、と言い放っていると受け取られ兼ねないことを、声と態度だけは取り繕いつつ、龍麻は告げてしまっていたので。

「見切り付けられちゃったら、どうしよう……。……ううん、京一は、何だ彼んだ言っても僕には甘いから、見切り付けられちゃうようなことにはならないって信じてるけど、僕と京一の恋愛ロードは激しく後退しちゃったかも知れない……。後二ヶ月もしないで卒業式来ちゃうのにーー!」

馬鹿なことをしてしまった気がするなあ……と、力一杯枕を抱き締めながら、彼は、どっぷりと落ち込んだ。

……だが、東京で過ごした約一年の時を除けば、それまでの短き人生の中での、心に残る良い思い出が無きに等しいが故に、鬱陶しいまでに逞しい、雑草魂の塊のような彼は、八つ当たりと慰みの対象だった枕を突然放り投げて、一度、雄々しく立ち上がってから、ちまっとベッドの隅に腰掛け直す。

「……ま、諦めるつもりなんか最初から無いけど、諦めるには未だ早いよね。取り敢えず、明日、もう一度京一の家に押し掛けて、昨日は言い過ぎちゃった、御免って謝って。ああ、そうそう、忘れずにフォローも入れないと。夕べ、家に帰ってから、京一の気持ちのことも、ちゃんと考えてみたの、って。…………うん。で、立ち直るのは大変かも知れないけど、『一緒に』頑張ろう、とか何とか言えば、きっと、軌道修正完了。京一とラブラブになる道が、一歩開ける筈!」

そうして、又、まるで可憐な少女が可愛らしい縫いぐるみを抱くように、奮発して買った羽枕を抱えた彼は、素早い立ち直りを見せた。

「そうと決まったら、お風呂入って来なくちゃ。明日の為に!」

次いで、今、己の姿を見咎める者は誰一人としていない、とばかりに、きゃるん、と立ち上がって、いそいそ、狭過ぎるユニットバスに向かい、頭の先から足の先まで、迎えるかも知れない『あの時』を思い描きながら、それはもう念入りに磨き上げた彼は、そんなこんなに勤しんでいた最中、懲りること無く脳裏に沸いた、極彩色で結構生々しい想像に思考をトプっと浸けたまま、バスタオル一枚のみの姿で風呂を出る。

「……そう言えば。京一って、あれ、持ってるのかな。持ってるっぽいけど。僕が用意した方がいいのかな」

「あれって?」

「え、決まってるじゃない、薬局で売ってるゴム風船。……って、えーー……と?」

風呂から部屋へ戻っても、妄想にとっぷりだった龍麻は、現実とは違う彼方の風景を見詰めており、彼が見遣る彼方の風景の中で、想像の彼は、想像の京一と共に肉欲全開放中で、それを一時停止し、現実的過ぎることに思い馳せ、独り言をも呟いた彼は、独り言への返る筈無い問い掛けに、ナチュラルにドきっぱり答えてから、おや? と声のした方──玄関先を振り返った。

「…………あ、れ? 京一……?」

「応。チャイム鳴らしてもノックしても、ひーちゃん出て来なかったけど、鍵開いてたから勝手に入った」

そこには、半畳も無い三和土と部屋の段差に腰掛ける京一がいて。

「……あ、開いてた? ホントに?」

「開いてた。ホントに」

「あ、そう……。────えっと、取り敢えず、どうぞ」

微妙に引き攣った顔になった龍麻は、機械的に京一を中へと上げて、本当に小さい一人用のコタツの向こう側に押し込むと、少しばかり混乱していたのか、バスタオル一枚のみの姿のまま、己もコタツの前に座った。