東京魔人學園剣風帖

『始まりの場所の記念日』

────その日は。

絵に描いたような梅雨の一日だったその日は、彼等の『始まりの場所』の『記念日』。

鬱陶しいな、と思う雨ばかりが降る梅雨を迎えた、六月の上旬。

その日も、朝から降ったり止んだりを繰り返している空模様を、蓬莱寺京一は、教室の己の席に座りながら、頬杖付きつつ、ぼんやり、と眺めていた。

彼がそうしている今は、眠気を誘う午後の、しかも数学の授業の真っ最中だったが、そもそもから、教師の話をまともに聞くつもりなど彼にはないし、数学の授業中に彼が起きているのは、或る意味奇跡のようなものだから、「起きてるだけマシだろう?」と言わんばかりに彼は、先程までは止んでいた、が、再び、絹糸のような細い雨を降らせ始めた、暗く重たい空へと気のない風に視線を送り、つらつら、考え事をしていた。

──その時、彼の心を占めていたのは、彼の通う、真神学園高等学校の片隅にある、旧校舎のことだった。

老朽化を理由に、生徒も、教職員すらも、立ち入りを禁止されている古びた建物。

太平洋戦争以前からそこに在り続け、戦時中は、旧帝国陸軍の実験施設だったとか何とかいう噂もある、所謂、『学校の怪談』の類いも尽きない場所。

そんな旧校舎は、一言で言えば『良くない場所』なのだけれど、旧校舎をぐるりと取り囲む高い塀には、一部の生徒達はよく知る抜け穴があって、肝試しが好きな者達や、『資金』を必要とせず、且つ、如何なるコトに及ぼうが滅多なことでは邪魔も入らぬ、絶好の『デートスポット』を渇望する者達には、楽しい所、又は、有り難い所だ。

が、尤も、そういう部類の生徒達にとって、旧校舎が、楽しい所だったり有り難い所だったのは今年の四月までの話で、一学期が始まって幾らも経たぬ内に、シケ込んだカップル──男子生徒と女子生徒の二名が行方不明になってからは、本当に、滅多なことでは誰も寄り付かない場所になった。

……でも。

旧校舎にシケ込む処を目撃されたのを最後に、件の二人が行方不明になって数日後、京一は、同級生の仲間達──転校して来たばかりだった緋勇龍麻や、醍醐雄矢や、桜井小蒔達と、その旧校舎に潜り込んだ。

京一が自ら、『スピーカー』と渾名してやった遠野杏子──スクープをゲットすることを何よりも生き甲斐にしている新聞部長の彼女が、ネタを掴む為に、生徒会長の美里葵を拝み倒して鍵を職員室から借り受けて貰い、旧校舎に足踏み入れたら、変な赤い光に襲われて、それから逃げている内に葵が消えてしまったから、一緒に探して欲しい、と訴えて来た為に。

だから、彼等は教師達の目を盗んで旧校舎に忍び込み…………、そこで、不可思議、としか言えない体験をした。

ヒトならざるモノと戦って、不可思議な声を聞いて、不可思議な『力』を得て、気を失っている内に、何者かによって旧校舎から連れ出される、という体験を。

──薄気味悪い、としか思えなかったその体験は、今でも、京一達の間では、敢えて触れない、が暗黙の了解となっている。

二ヶ月程の時が経ち、恐らくは『その体験』を切っ掛けに、自分達は不可思議な『力』を得たのだ、との確信を得て、ヒトならざるモノ──異形と呼ばれる存在、それ等と戦う日々を受け入れ、そういう戦いの為に自分達の『力』は在るのだろう、との自覚が伴い出しても。

あの日、あの時、旧校舎に居合わせた者達の誰一人、古び過ぎた学び舎のことも、あの折の出来事も、決して口にせずに来た。

けれど、少なくとも京一は──多分、他の者達も──、『あの場所』を、『あの出来事』を、気にせずにはいられず。

「どうしても、気になるんだよな……」

旧校舎のことを考えつつ眺め続けていた雨空より目を外し、彼は僅か、肩越しに振り返った。

振り返った彼の、鳶色の瞳の中に飛び込んで来たのは、龍麻。

二ヶ月前、真神学園三年C組──要するに、京一達のクラスへやって来た、今の京一にとっては友人以上親友未満な転校生。

「緋勇、か……」

そんな彼は、本当は何かを知っているんじゃないか、と『あの出来事』を思い返す度に思わずにいられぬ京一は、その時も、龍麻を盗み見た。

何がどうしてどうなったのか、さっぱり判らぬまま戦って、この世のモノとは到底思えぬ存在を倒せるだけの『力』を自分達が持っていた、と思い知らされて、呆然とするしか出来なかったあの時。

確かに龍麻も呆然とはしていたけれど、自分達が抱えた呆然と、龍麻が抱えた呆然は、少し意味合いが違う気がする、と京一には思えて、だから、今、又。

彼は、この二ヶ月間秘かに思い続けて来たことを再び心に浮かべ、今にも寝てしまいそうになるのを、必死に堪えながら教科書と睨み合っている龍麻を見詰め。

──……寺。……莱寺。……蓬莱寺っ! 蓬莱寺京一っ! 君は、授業を受ける気があるのかっ!?」

いい加減、彼の態度が目に余り始めたのだろう、生徒達の評判は余り宜しくない数学教師に怒鳴り付けられ、顔のど真ん中目掛けて、真新しいチョークを思い切り投げ付けられた。

「ったく……、ネチネチした野郎だぜ、あのセンコー。ヒステリーまで起こしやがって。……って、ん? 男でも、ヒステリーっつーんだっけ?」

「執念深いタイプだろうなー、っていうのには賛成だけど。授業中、ぼーっとしてた蓬莱寺が悪い気がするけどなー、俺」

陰険な質をしているらしい教師に、京一が盛大な雷を落とされた数学の授業も疾うに終わった放課後。

何時もの面子である醍醐はレスリング部へ、葵は生徒会室へ、小蒔は弓道部へと、それぞれ行ってしまって、仲間内では、「部活に精を出すのは、貴重な青春の無駄遣い」と言い切る京一と、帰宅部の龍麻だけが教室に居残っていた。

同級生達の姿が疎らになり始めても、京一は、数学教師への文句を零すこと止めず、愚痴に付き合いながらも龍麻は苦笑を浮かべ。

「寝なかっただけ、マシだと思わねえ?」

「……いやーー、その理屈もどうかと」

「そうか? 或る意味快挙だぜ?」

「うわー、レベル低っ!」

二人は暫し、大声で笑いながら他愛無い会話を続けた。

そうして、雨空が広がる故に薄暗い放課後の教室に、彼等以外の姿が消えた頃。

「なー、緋勇。ここんトコ、暇だろ?」

「暇……と言えば暇だね。中間テストもこの間終わったし、この一、二週間、変な事件の噂も聞かないから。でも、それがどうかした?」

「平和なのはいいことだと思うけどよ、一応。暇過ぎるのも詰まらねえからよ。……行ってみねえ?」

「…………何処へ」

「旧校舎」

「え、あそこに…………?」

頃合い、とでも思ったのか、踏ん切りが付いたのか。

自分達の話を聞く者はいないと知った京一は、『暇潰し』に旧校舎に行ってみないか、と言い出して、でも、龍麻は眉を顰めた。

「お宝が眠ってるかも知れないって噂もあるんだろ? それに、元々あそこは、オカルト好きな連中の肝試しスポットだったし」

「でも、あそこはさ……」

「平気だって。いいじゃねえかよ、旧校舎探険しようぜ」

「蓬莱寺……。マジで言ってる?」

「おう。マジだぞ。──つー訳で、緋勇っ。旧校舎探険に行くぞー!」

「物好きだなあ、蓬莱寺…………」

しかし結局、尻込みしていた龍麻も、「どうってことない」と言い張りながら、能天気な態度を取り続けてみせた京一に押し切られ。

二人は、こそこそと人の目を盗みつつ、旧校舎に忍び込んだ。