どういう訳か、旧校舎近辺をよく見回っている、京一の天敵な生物教師、犬神杜人の目も上手く掠めて忍んだ旧校舎は、梅雨の一日、という条件も相俟って、『あの日』よりも遥かに黴臭く、空気は湿っていて重たかった。

四月のあの放課後は、色々な出来事が立て続けに起こった所為で、よく見遣ることも出来なかった古び過ぎた校舎は、本当にあちらこちらが痛み切っていて、ソロソロと進む廊下の木の床は、今にも、ズボッと踏み抜いてしまうのでは、と京一にも龍麻にも思えたくらい、危うい感触を靴裏から伝えて来た。

「雨漏りとかもしてそうだなあ……」

「あー、言えてる。幾ら何でも酷過ぎんぜ」

「でも、取り壊しが決まり掛けてるんだろう? 旧校舎を保存しようって運動が起きてるとか何とか、前に遠野さんから貰った真神新聞に書いてあったと思ったけど……、これは流石に、取り壊しちゃった方が安全なんじゃないのかなあ……」

「まあな。歴史がどうの、なんて言う連中もいるらしいが、俺に言わせりゃ、こんなん、只のボロ屋だ」

「何で、今まで取り壊さなかったんだろう、ここ。あんな、旧校舎全部を取り囲む壁なんか作るくらいなら、取り壊しちゃった方が手っ取り早かったろうに」

「…………ああ、そう言えば、俺等が一年の時の剣道部の主将に、不思議な噂教えて貰ったことあったなあ……」

「不思議な噂って?」

「ここが何時出来たのか、本当のトコは俺も知らねえし、先輩も知らなかったみたいだったけど、過去にも何度か、旧校舎取り壊しの話は出たんだと。でも、何でかその度に、何時の間にかその話はなかったことになって、だから今まで残ってるんだ、って話でな。何年か前の代までは、ここを取り壊すと祟られるー、みたいな下らねえ噂もあったらしいぜ。最近じゃあ、すっかり下火になった噂らしいけどな」

一歩進む毎に、ミシミシと音を立てる廊下を行き、余り視界の良くない中、何とか目を凝らし、あっちの教室だの、こっちの準備室だのを覗いて歩きながら、二人は、旧校舎にまつわる話を続けた。

「へー……。まあ、学校ってトコにはありがちな噂かもだけど。──で? 蓬莱寺、探険って、どうするんだよ。このまま、あちこち覗いて良しにする?」

「んー、そうさなあ……。どうせ乗り込んだんだ、折角だから、お宝探しの真似事くらいはしてみたいよな」

「なら、それっぽいトコでも探す?」

「だな。そうすっか」

怪談めいている噂話が始まっても、手当り次第に各部屋を覗いても、『あの日』のような出来事は一つも起こらず、唯、人気がない故の不気味さだけを漂わせる校舎の様子に、段々、張っていた気が緩んで来て、『詰まらない』との言い訳を振り翳し、『あの日の出来事』を少しでも解明してやろうと意気込んでいた京一も、誘いに乗りはしたものの、『あの日の出来事』の舞台に行くのは……、と躊躇い続けていた龍麻も、気分を、純粋に『旧校舎探険!』にシフトさせてしまって。

「四月にここに来た時、醍醐が、昔の軍の実験施設、とか言ってたよね」

「ああ、そんな話してたな。アン子の奴も」

「ってことは、何かあるとしたら地下かな」

「一番、それっぽいよな。お宝だって、地面の下ってのが相場だろうし。……おっしゃ! 緋勇、地下室探すぞ!」

「オーーー!」

旧校舎二階部分をフラフラと彷徨っていた彼等は一階へ戻り、あるかも知れない地下室へと続く某かがありそうな所を、手当り次第に漁り始めた。

……それより、三十分程が経った頃だろうか。

新宿の高層ビル群の向こうに、雨雲の裏に隠れまま太陽が沈んでしまったことにも気付かず、探険を続けていた彼等は、校舎一階の片隅──四月のあの時、葵が倒れていた教室の更に奥──に、ひっそりと、隠される風にあった小部屋を見付けた。

立て付けの悪くなってしまっている引き戸を開け放って踏み込んだ、長い廊下の突き当たりのその部屋はとても狭く、コンクリートが剥き出しの壁と床があるだけの、この校舎が現役だった頃も『使われていなかった部屋』なのだろう、と思える風情だった。

「埃っぽい……」

「うげ。何だ、ここ……」

引き戸を開いた瞬間舞い上がった、年月が生んだ埃が、厚い絨毯の如く敷き詰められている床──窓のないその部屋は暗かったから、彼等は気付かなかったけれど、確かに誰かがここへ踏み込んだ証拠である足跡が、『数種類』残る床──を、口許を覆いながら爪先で埃の層を削るように進んで、やがて。

「ん?」

「あれ?」

コン……、と足音が金属音に変わる一角を彼等は見付ける。

「目、目が痛いーー!」

「俺だって痛ぇよっ!」

この、足許にあるのは何だろうと、埃と戦いつつ、ぎゃあぎゃあ騒ぎつつ、何とか足でそこを探れば、把手のある、鉄板で出来た蓋のような物が顔を覗かせた。

「…………引っ張ってみる?」

「……おう」

何処からどう見ても蓋、なソレを暫し眺め、徐に顔を見合わせ、こくり、頷き合うと、龍麻と京一は、せーの! の掛け声と共に、掴んだ把手を引いた。

「おーー……。『地下室』?」

「かもな。……へへへー。面白くなって来たぜっ」

退かした、重たい『蓋』の先には、真っ暗な空間へと続く『口』が、ぽかり、と開いていて、小さな子供のように二人は目を輝かせ、下へと続いているらしい階段があることだけを確かめると、そろ……っ、とそこを下りた。

闇色の『口』から地下へと続く階段を下り始めた途端。

二人は揃って、不思議な感覚に襲われた。

敢えて例えるなら、時間と距離の体感が、果てしなく狂って行くような、そんな感覚に。

「何だろう……。何か、気持ち悪いって言うか……、何て言えばいいのかなあ……、こう……粘膜の中歩いてるみたいな……。そんな気にならない?」

「ああ。お前の言いたいこと、判るぜ。何つーんだ? 薄い糊の中に手を突っ込んだ感じっつーか……。何か重たいんだよな……。何なんだ? この感覚」

「さ、あ……。……どうする? 止めとく?」

「今更、引き返す手はねえだろ」

襲い来るそれは、未だかつて感じたことのないもので、上手く例える言葉の持ち合わせは二人共になく、が、どうにも気持ち悪いと言うか、動き辛いと言うか、とブツブツ言い合いながら、それでも彼等は先に進む道を選んだ。

……だが、本当に、時間と距離の感覚が狂い始めたのか、辿っている階段は、何時まで経っても『到着』しない長さ、と彼等には思えて来て、だのに振り返ってみれば、数段と下りてはいなくて。

「………………俺はなあ、まどろっこしいのは嫌いなんだよっ!」

「え? あ、馬鹿っ。蓬莱寺っ!」

短気を起こした京一は、体の一部である木刀入りの竹刀袋を握り直し、ガッと龍麻の手首を掴むと、真の闇色をしている『向こう』へと、威勢良く飛び下りた。