東京魔人學園剣風帖
『汀』
諸注意
この作品には、京一の剣の師匠に関する或るネタバレ(ファンクラブDVD絡み)が含まれています。
ご了承下さい。
先日も、先々日も降り、そして積もった雪が、その日の夕刻過ぎ、再び降り始めたと気付き、深い山中で『馬鹿弟子』に付けていた修行の手を止め、神夷京士浪──本当の名を、蓬莱寺京梧と言う彼は、暗い空を振り仰いだ。
「……京一」
「何だよ、馬鹿シショー」
暫し空と雪を仰ぎ、次いで、齢十一になったばかりの馬鹿弟子を見下ろせば、彼の馬鹿弟子──蓬莱寺京一は、樫の木刀の先を下げた己が師匠に倣って、構えていた自身のそれを下ろし、生意気そうな声で、到底、剣の師匠に対してしていいとは思えぬ口を利いた。
「馬鹿は余計だと、何遍言わせりゃ判んだ、この馬鹿弟子っ! ったく、てめぇは……。────京一。お前、この降り積る雪を見て、どう思う?」
口は達者で可愛気の無い、師匠を師匠とも思わぬ馬鹿弟子の頭を、ゴン! と京梧は拳骨で一発ぶん殴り、「どうしてこの馬鹿弟子は、こんなにも出来が悪りぃのか」と、溜息一つ付いてから、気を取り直し、面持ちを塗り替え、又、雪を見上げつつ問うた。
「どう──って、言われても……。積もったら、修行が面倒臭ェなあ、とか、雪掻きすんのが大変だなあ、とか」
師匠の、低い静かな声の問いに、京一は思う処を思うまま答え。再び、京梧は無言のまま、馬鹿弟子の頭をぶん殴った。
「痛てっ!! 何で殴んだよっ」
一度目よりも盛大に殴られて、頭の天辺を両手で庇いながら、京一は抗議の声を上げる。
そんな幼い彼に、やれやれ……、と京梧は首を振り、
「馬鹿弟子。雪ってのはな、人の想いによく似てる」
改めて、降り続ける雪を見詰め直した彼は、ぽつり、弟子を諭すように語り始めた。
「想い?」
「白いが故に穢れ易く、儚いが故に壊れ易い。次から次へと降り積もっては、あっと言う間に消えて行く。積もっても、積もっても、呆気無く消えて、白くて綺麗で儚くて、けれど何時しか土に塗れる。……人の想い、そのものだ。……だが、記憶は残る。白くて綺麗で儚い、雪そっくりな想いが、雪が土に塗れる如く穢れても、溶けて消えても、その想いを抱えていた記憶だけは、確かに、てめぇの中に残る」
「ふう、ん……」
「…………だから、京一。忘れるな」
「……? 何をだよ」
「何も彼もを、だ。──例えば、お前が、今ここで見てるこの風景。俺と一緒に雪を見たこと。この先、お前が見詰め続けていく風景。見たもの。見詰め続けていくもの。抱えた想い。抱える想い。抱え続けていくだろう想い。そんなモノ達が、お前の中に、確かに生み、残す記憶。…………その、何も彼もを。忘れるな。お前の、心の中にある輝きも」
馬鹿弟子の心に、そして記憶に、刻み込む風に、彼はそんな話をして聞かせて。不意に、己が左手へと眼差しを落とす。
……京梧の左の手首には、決して外されることのない、随分と長い間されたままらしい黒珠
────己の通っていた小学校の、担任の女性教師に絡んでいたヤクザ者達に無謀にも突っ掛かって、危ない目に遭った処を助けて貰った際、どうしてか、弟子にならないかと誘われて、ほいほい、そんな誘いに乗ってしまってより始まった、彼と『馬鹿シショー』との付き合いは、もう、一年を越える。
人も獣も踏み込まぬような山中で、一年の上、二人きりで修行の日々を送っていれば、『馬鹿シショー』に逆らいたくて仕方無い天邪鬼な京一でも、『馬鹿シショー』が黒玉の念珠をどれ程大切にしているか、悟れぬ筈は無く。
「……シショー。腹減った」
念珠を見詰める京梧の眼差しより、「時々、馬鹿シショーは、俺の『知らない奴』になる」と思わされた京一は、どうしたらいいか判らなくなって、腹が、と言い出した。
そんなようなことを言えば、彼は、『自分の知る馬鹿シショー』に戻ると、知っていたから。
「…………てめぇの頭には、そういうことしかねぇのか?」
すれば、案の定、京梧は盛大に溜息を吐いて、軽く京一の頭を引っ叩いてから、自分達の塒へと戻り始めた。
もう十年以上前、京梧が関わった、中国・福建省の封龍の里にて起こった戦いの折、彼と共に戦った戦友の一人である『辻占』が、若い頃、修行する為に使っていた小さな庵のような小屋が、師弟の現在の塒で。
戦友より借り受けているその小屋の片隅で、夜が更け始めて来た頃、「今日も疲れた……」と、ブチブチ言いながら煎餅布団に包まって眠った京一の頭を、こっそり一度だけ撫でてから、京梧は一切の音を立てずに小屋を出、数歩ばかり進んだそこにて佇んだ。
夕刻過ぎに降り始めた細雪は既に止んでおり、木立に囲まれている所為で、ぽっかりとくり抜かれている風に見える夜空を見上げれば、靄の掛かった月が見えた。
「月、か……」
滲むそれを眺め、ぽつりと呟き、彼は又、歩を進めた。
程無く、丘のような……崖のような……、兎に角、小高くて、遠くの風景まで見渡せる開けた場所が彼を迎え、宙に突き出る風に伸びる傍らの樹──山桜の幹に片手を付き、彼は、月明かりに薄らと浮かぶ霊峰・富士へと目を凝らす。
「……どうして俺は、馬鹿弟子に、あんな話をしたんだかな……」
月を見遣り、手を預けた山桜を見遣り、富士を見遣り。ふと、夕刻のことを思い返して、京梧は再び、ぽつりと洩らした。
馬鹿だろうと何だろうと、己が弟子である京一には、何時かは聞かせてやらなくてはいけないことの一つだとは思っていたが、何故、今日だったのだろう、と。
「里心みてぇなモンでも、顔覗かせやがったかな」
そうして彼は、山桜の幹に寄せた手に嵌る念珠に目を遣り、
「里心っつーか。…………俺は、お前に逢いたいのかも知れない。……なあ、ひーちゃん。どう思う? 俺の中に確かに残ってる記憶は、お前のことだらけだからなぁ……」
それを見詰め続けながら、一人、その場にはいない『ひーちゃん』へ向け、話し始めた。